「わたし愛着障害なんです」では解決しにくい

自己紹介で流行った

人の健康に関わる支援業の方とお話しすると、「『私は愛着障害です』と自分で言う人が増えたのねえ」と言われます。

数年前に言葉が流行ったんですよね。

「愛着大事だよねえ」ではなく、必ず「わたし愛着障害なんてす」という形で聞かれます。

「愛着障害を克服したい」とも違います。

もし、一般の人よりもデリケートであることに配慮してほしいのであれば、「ビクッしたり、不安になったりするかもしれません」などと具体的なことも言えるとよいです。

もし、お悩みを解決したいなら、「愛着障害があてはまるように思います。そのテーマを扱うとよいのではないかと思うのですが」といった表現になるところでしょうか。

解決したいことはなにか?

現代人の半数くらい、愛着障害の性質を多かれ少なかれ持っている気配もあります。

「愛着障害であること」が悩みだというのは、ちょっと変です。

本当にそうなら、愛着障害という言葉を使うのをやめれば解決です。

実際のところ、どうなりたいかを言葉にせずに、愛着障害を解決しようとすると、目的を見失いなうことがあります。

どうなりたいかを言いたがらない場合は、実は親を裁いてほしいという意味であることもあります。

また、愛着障害があったとしても、愛着障害がお悩み解決のカギとは限らないです。

愛着障害もあるけど、解決したい悩みによっては、たとえば必要なのは自己肯定感の心理セラピーかもしれません。

ラベルのニーズ

また、克服したくないけど、ラベルが欲しいというのであれば、あまりよい言葉ではないです。原因を示唆する言葉なので。

それに、解決したくないけど、原因を追及するというのは、自身に呪いをかけるようなものです。

でも、一番多いのは、「普通」を要求されると苦しいという想いかなと思います。「触れ合いを喜べ」とか、「フレンドリーになれ」とか、「結婚しないのは負け組だ」とか。事情あって、そういう規範には入れないと言いたいのかもしれません。

原因論で言わないと、受け入れてもらえない感覚はごもっともかもしれません。

でも、アイデンティティにせずにラベルに留めるのをおすすめします。

ラベルを使うにしても、克服をめざしているのか、配慮を求めようとしているのか、苦しみを原因のせいにしたいのか、自覚することをお勧めします。

※ちなみに、大人の愛着障害についてはDSM-Vには定義されていません。それを嘆く日本の専門家もいますが、私は疾患扱いしない方がよいと思っています。

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