心理療法の世界では統合アプローチとか技法折衷とかいって、一つの技法に拘らずに合わせて使うということが流行しています。
Kojunの心理セラピーも最初から技法折衷です。
細かな技法は組み合わせてもよいのですが、アプローチを混ぜるとよくない場合があります。ブレるとでもいいますか。
混ぜ失敗の例
クライアントの体験談などでよくあるケースで、混ぜないほうがよかったんじゃないのかしらの例を挙げてみます。
それは、
精神分析 + 行動主義アプローチ
です。
この組み合わせは、臨床心理の歴史上でもよく出てくる[1]ワクテルさんとか? スキーマ療法とか?ようで、それらが全て間違っているとまでは言いません。
けど、けっこう要注意です。
というのは、精神分析というのは抑圧や防衛によって無意識に隠されていたものを露わにしてしまいます。それは、脱がせるとか、箱の蓋を開けることに似ています。
精神分析療法は箱の蓋が開くと自然に浄化するみたいな感じ[2]古くはアンナ・Oの「会話による癒し」(間違ってたらすみません)ですが、より新しい心理セラピーでは出てきたものを受け止めたり癒したりします。
よくある「精神分析を受けたら、不安定になったような気がする」というのは、蓋を開けただけでは癒されないケースですね。蓋が開いたまま、次のセラピストを探して彷徨うことになります。
でも、本人が変化を望んでいるのであれば、蓋が開いたのもプロセスの一部として価値があるのかもしれません。ちょっと大変だけど。
で、いちばんお勧めしがたいのが、精神分析で禁断の箱を開けて、治療者都合で矯正的に触っちゃうというやつです。
行動主義アプローチというのは外からの働きかけで人の心を変えようとするルーツがあるので、土足で入り込む感じになりかねないです。
箱の中から間違ったもの、正しくないものが出てきても、直そうとしないほうがよいでしょう。
Kojunは心理支援の講座などで、こんな風に提案しています。
脱がしたら触るな。触るなら脱がすな。
感情に触れるワークで心を開かせたときに、助言や解釈をしないということです。心理支援者が助言や解釈をするなら、本人が理性優位になっていて、ウソをついたり、ごまかしたり、反論したりできる状態でやるべきです。そうでなければ洗脳と同じテクニックになります。
実は感情力動アプローチなんかでも、変容や認知の再選択を促すことはするので、行動主義の知見は入ってはいます。感情力動を扱ったあとで、再決断で補ったり、絡んでいる恐怖症を脱感作したりはします。
うーん、技法は組み合わせるけど、思想は混ぜないってことですかね。
なので、単純に精神分析+行動主義はダメだということでもないのです。
ただ、知識や手法の足し算をするとだめでしょう。
危険な混ぜ方1:「同化」ができていない
技法折衷が単なる寄せ集めではなく、主とする技法・アプローチに整合して技法が付けくわえられてゆくことを「同化」と呼ぶ人もいます。
「混ぜるな危険」は、ちゃんと同化できていないといけないよという意味ですね。
ちなみに、「同化」というのは子供が概念や知識を習得していく過程で、既存の知識に新しい知識を関連付けてゆくというような意味のピアジェの用語からきています。
危険な混ぜ方2:受ける側のメンタルモデルがない
私はネイティブ・セラピストなので、様々な施術、治療、心理セラピー、カウンセリングなどを受けて傷つく体験をしてきました。クライアント側の声をピアとして聴いてきました。それでも傷つけない保証はありませんが。
「脱がして触る」問題は、どの組合せがダメだと覚えるには限界があり、やはり心理セラピーをされる側のメンタルモデルが育っていないと判断がさらに困難になるのだと思います。公的な心理の教育課程では、セラピーを提供する側の勉強はあっても、提供される側の体験はないですから。[3]教育分析とかいうクライアント体験もどきでは、助けを求めざるを得ない人の気持ちはわからないです。
クライアント側のメンタルモデルがないというのは、「同化」できているかどうかのイメージを持てないということかもしれません。