「科学主義」と「本人中心主義」を比較してみます

すべてにおいて正反対とは言いませんが、「科学主義」と「本人中心主義」を比較してみようと思います。

科学主義

「支援者の勘や経験に頼らず、エビデンスに基づいて判断する」

エビデンス

エビデンスというのは、主に統計的手法によってい、治療法の効果が検証されたことをいうようです。

こちらの記事に、その限界を書きました。

マニュアルやガイドライン

症状・主訴 → 診断 → 療法の選択

という流れになります。診断マニュアルのようなものがあって、「これにあてはまるから〇〇疾患だ。だから、〇〇療法が効果的らしい」と判断するイメージです。

内科学モデル(内科の医療)といわれるものに近いかもしれません。

ちなみに精神医学の診断マニュアルはある時期から「原因ではなく症状で分類する」ことを主とするようになったそうです。それによって「医者によって診断結果が異なる」ということをなくしてきたそうです。福祉の手続きなどはそれでよいかと思いますが。

もし、勘と経験を使わなくてよいのであれば、このようなことはそのうちユーザーがWebで自分でできるようになるでしょう。というか、ある程度の自己診断は既にできるようになっています。

実はこれは「科学」ではなくて「テクノロジー」なんですけどね。「科学」はもっと役に立たない、効率の悪いものです。

「自信をもってやれる」という心理支援者の都合

心理支援者は「間違える」という恐怖が減りますね。実際にはたくさん間違えてるのですが、ミスとみなされないから治療者としては安心ってことです。

このアプローチを教えているカウンセリングスクールなどは、「自信をもってクライアントに対応できる」を売り文句にしています。

間違えないことが大事、恥をかかないことが大事、そんな感じです。

統計的に証明されたことに従って判断するというのは、マイノリティをいったん無視しますよということです。1回間違えても9回正解だったら支援者や治療者の面子は保てるでしょっていう価値観ですね。

「科学的」というのは心理学者や治療者のための科学的なのだということです。テイラーの科学的管理法(従業員を機械のように合理的に扱う経営管理方法)は経営者のための科学であって従業員のための科学ではないというのと似ています。

ところで、私は理学部出身ですが、自然科学では全てを反証可能性のある仮設として扱いますので、物理学や化学の教授たちから「科学的に証明された」という言葉はあまり聞いたことがありません。「科学的に証明された」というのは科学者の台詞ではなくて、たいていはマーケッターの台詞です。

「インチキ」の反対を「科学」だと思っている人たちは、騙されやすいです。

(不安や抑うつなどの尺度の)点数が下がったから治療効果があるなどというエヴィデンスの取り方は心理療法やカウンセリングにおいてはナンセンスである。

『心理療法の交差点2』第四章 若島孔文

本人中心主義

本人中心の視点というのは、クライアントや患者の立場を経験した人にしか分かりません。クライアントや患者を診ても、それは体験ではありません。

私もかつては大学院で認知科学に関する研究室にいました。「客観的なデータ」と「誰かの主観」を比べれば、前者には意味があり、後者は紛らわしいノイズ、間違いの元でしかないように思っていたと思います。まさか、本人の体験世界があるなんて想像もできていませんでした。「観察されるもの」と「体験されるもの」があることを知らなかったのです。そもそも本当の体験したくないから、学問なんかやっていたのかもしれません。

ですので、臨床心理学者の半数が、人の痛み苦しみについて、それがなんなのか知らないとしても不思議ではないです。

ですが、なんとか理屈を書いてみたいと思います。

客観的なデータは役に立ちます。

とはいえ悩みの当事者からすると、「多くの人はこうです」と言われても、自分に合わなければ意味がないわけです。

確率論なら、成功率70%のエビデンスあるアプローチを繰り返せばいつか上手くいくでしょう。でも、あなたに合わないことを10回やっても効かないでしょう。それは確率ではないからです。

「男声のほうが女性よりも背が高い」ことは科学的(確率統計的)に証明されています。ちゃんとエビデンスがあります。しかし、たまたまあなたが背の高い女性だったら、あなたにはその知識はあてはまりません。

「いやいや、屁理屈だ。多くの人に当てはまるのだから大事だ」

はい、治療者にとっては大事です。

でも、当事者は研究データになるために生きているのではありません。

「知識に頼らず、勘や経験を大切にする」

勘ってなんだろう

「勘」というのは、「木を見ずに森を見る」ということにも似ているかもしれません。

名医の言葉などを聞いていると、どうやら「勘」というのは「多元的にみて判断する」ことを言っているようです。

また、ユングはこれを「コンステレーション(星座)」と呼びました。複数の星を同時に眺めることで浮かび上がって見えてくるものが大事ということです。

知識や経験の不足をサイコロで補っているという意味での「勘」とは区別したほうがよさそうです。

心理セラピーでは、「手順マニュアルからするとこうなんだけど、なんか次の手順をやらないほうがいいような気がする」というようなことが起こります。そして、その感覚は正しかったことが後でわかるなんてことがあります。

逆に、手順通り機械的にやったほうが上手くいくなんてこともあります。

なんとなく思っていたことが、後になって「やっぱり」ということもあります。勘が正しかったわけです。

科学主義に反対の私ですが、自分の勘を信じることができなかったことを後悔することがよくありました。勘を信じるより、知識を信じる方が簡単かもしれません。

勘とマニュアルの混ぜかたにコツがあるような気がします。

一番頼りないのは、勘をつかっているつもりで、たんなる癖(根拠なく覚えてしまった自己流マニュアル)だという場合かと思います。

なので、勘が働くときというのは、どや顔で自信もってというよりは、むむむーぅっと勇気を要求される感じがあります。

経験とデータの違い

「経験」を重視するというのは、自分がこの目でみたものを信じるということかと思います。

「事例」というのも近いと思います。事例は統計的に処理されていないのでエビデンスレベルが低めとされます。

たとえばリストラされて不安と絶望の状態にある人がいたとしす。そんな人にとって、同じような境遇を通り抜けて、いまは幸せになっている人がいるという話は強い力になります。

科学主義によれば「サンプル数が少ないから、エビデンスレベルが低い」と批判されますが、たった1件の例であってもそれは希望になるのです。

※本来のエビデンス・ベースト・アプローチによれば、このような例は「エビデンスがない」のではなくて、「低めのエビデンス」(おそらくエビデンスレベル5)に位置づけられています。

「リストラされた人の多くが幸せになっている」という統計情報である必要はないのです。

「リストラされた人の多くが幸せになっている」に勇気づけられる人よりも、「リストラされたけど幸せになっている人もいる」に勇気づけられる人のほうが幸せを望む力がある(大事なプロセスに入っている)ように感じませんか?

これは、生きずらいパーソナリティを得てしまった人、暴力被害者、毒親に育てられた人、難病の人などなどにもあり得ることでしょう。

「やってみようと思えること」「克服したいと思えること」「絶望しながらも、なんかしてみたいと思えること」こそがプロセスの重要ポイントであって、治療法の効果などというのはその次のことでしかないのかもしれません。

エビデンスよりも本人の気持ちにフィットすることを優先していると「エビデンスに基づかないセラピストの自己満足にすぎない」と言われることがあるようですが、治療効果の客観情報を至上とすることこそ治療者の自己満足ではないでしょうか。

それが解らない科学主義の人たちはおそらく、当事者としての実体験に乏しいのでしょう。効率よく成果を出したい支援者や研究者は、実際の葛藤のなかで諦めない自分を保っている当事者とは全く異なる世界をみています。

当事者にとっては、「それは不可能ではない」ということが証明されるのが大事なのであって、「こうすれば解決する」という再現性より大事であったりします。私もお勉強のために研究データとか客観的エビデンスなる情報を見ることがありますが、そのとき「ひとりの人間」は見えなくなるのを実感しています。

これは「〇〇療法」とかいうメソッドが人を救うのか、それともご自身、本人の意思がその人を救うのかという世界観の違いでもあります。

メソッドが人を救うと信じている人は再現性を重視します。人(またはご自身)が人を救うと信じている人は一過性のストーリーを重視します。

たとえば、WHOのICD-10の診断とガイドラインによって「性別不合(旧・性同一性障害)」と診断された人たちがいます。「本人の性同一性(性自認)が女性であり、それは生涯変わらないものと思われる」などと判断されるわけです。

ところが、私は当事者コミュニティで過ごすなかで、診断された何人かと話したことがありますが、話していると「この診断書があれば、世間が信じてくれる」「これで手術ができる。そうすれば職場で虐められなくなる」などと話しているのをよく聞きます。つまり、自分がどうなりたいかというよりも、世間や職場にどう思われるかのために診断書をとったり手術をしようとしているのが浮き彫りになります。そして、多数ではなくとも手術してからリストカットや自殺をする人もいますし、「闘うために性別を変えなくてもいいんだよ。あなたはあなただよ」と言われて泣き崩れる人もいます。これが「経験」です。

診断ガイドラインは膨大なデータに基づいてつくられたものでしょう。私の経験はたった数人の事例ですが。

この場合、「勘や経験に頼らず、エビデンスに基づいて判断」すると「手術してよい」となり、「知識に頼らず、勘や経験を大切に」すると「手術はちょっと待った」となりますが、いかがでしょうか? 勘や経験は科学に劣るものでしょうか?

私がかつて学んだ心理セラピーのトレーニングでは、新米セラピストが「えーと、この場合は・・・」と知識を思い出そうとしていると、先輩セラピストから「どこを見てるんだ、クライアントを観ろ。答えは知識の中にはないぞ」と指導されたものです。

U理論では、あたまの中の知識を使って判断している状態を「ダウンロード」と呼び、目の前のものを観察している状態を「シーイング」と呼びます。未来へつながる重要なブレークスルーは「ダウンロード」から「シーイング」へ切り替えてゆく先に起きるとされています。これも似ています。

参考:
養老さんの講演の一部

心理支援者は常に「これでいいのだろうか」と自問することになる

科学的アプローチのセラピストメリットが「自信」だとすると、こちらは「自信がない」ということに耐えるネガティブケーパビリティを鍛えることになります。

本人中心アプローチも知識を使わないわけではないです。ただ、なにを真とするかというと、統計研究のエビデンスではなくて、目の前のクライアントの中にあると信じます。

間違いを恐れるよりも、むしろ間違いを手掛かりにします。なので、専門家に正解を求めているクライアントよりも、一筋縄ではいかないものに一緒に付き合ってくれる支援者を求めているクライアントに合うと思います。

まとめ

おそらく、こういうことではないかと思います。

科学主義の「勘や経験に頼らず」が余計なのではないでしょうか。ただ単に、研究データがあるなら参考にすればよい。

しかしなぜか、科学主義では「勘や経験に頼らず」というところが強調されます。

現在では、「実証的支持を得た心理療法」だけでなく、クライエントの特徴、カウンセラーの専門性をもとに治療法を選ぶことが推奨されている。

『完全図解 よくわかる臨床心理学』岩壁茂 監修

参考文献

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