人から理解されなくて辛いと感じているなら

人から理解されていないと感じるという悩みは、地味につらいです。いろんな人からアドバイスされても、そもそも勘違いされている感じがしたり。話せば話すほど、誤解が大きくなる。説教される。試しに説教を素直に聴こうとしてみたこともあるけど…、なんだかな。

人から理解されないという悩みは、その悩み自体も人から理解されないこと。下手に人に相談すると、「誰だってそうだよ」なんて言われます。「まあ、それはそうなんだけどさ…つらい…」ですね。

はい、私が間違っているかもしれないし、私が変かもしれない。だとしても、この分かってもらえない感じを分かってくれる人がいてくれてもいいのに。

とても辛くて切羽詰まっているなら、心理セラピーで根本を解消するのもよいかと思います。

ここでは、もう1つの提案をしてみたいと思います。

人から理解されなくて辛いと感じているなら、人を理解する実践をしてみる。根本解決はしないかもしれませんが、「自分は理解しないけど、自分は理解しようとしない」という状態を抜け出してみると、何か感じるかもしれません。人は人を理解できるのか、できるとしたらそれはどんな感じか、知りたくはありませんか?

  • 決めつけないで、人を観る
  • 決めつけないで、人の話を聴く

さあ、やってみましょう。

決めつけないというのは、何も推測しないということではありません。推測を事実と混同しないことです。

自分が相手について判断していること。それは事実か推測か?

推測が事実のように見えてしまう現象は、「投影」によって起こります。自分の中にある何か(心情、知識、思い込み、世界観、怖れなど)が勝手に解釈をつくりだします。

たとえば、相手が目をそらしたとき、「私を嫌っている」というのは推測です。

推測・投影と事実の混同から抜け出すには、観察が必要です。それは、観たままを観るということ。眼でみたことは目でみたことです。自分に起きていることも、あるがままに観ます。自分が推測したことは自分が推測したことです。

相手が目をそらしたとき、相手の眼線が外れたようだったという事実、それはいわゆる「そらした」という感じだった(少し解釈が入っている)ということ、「私のことを嫌っている」ととっさに自分が思った(推測・解釈)という事実、そして不安になったという事実。実際には、いちいちここまで考えるわけではありません。ただ観るということができれば、事実と推測・解釈がただ観えるのです。

説明すると、考え方のようにみえますが、さほど考えてはいません。観察から外れたときに修正するためにちょこっと考えるくらいです。

自覚ともいいますが、それはただ観えるのです。

やがて「あなたは分かってくれている気がする」という人が現れて、その人はあなたを理解する(分かっていなくても決めつけない)かもしれません。

※当サイトの記事には実践経験に基づく意見や独自の経験的枠組みが含まれます。また、全てのケースに当てはまるものではありません。ご自身の判断と責任においてご活用ください。

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