個人セッションはオンラインのみ、新規受付を再開します。

心理セラピストに憧れたことはない

セラピスト勉強会あるある

カウンセラー向けのある講座で、「みなさん〇〇先生のようなセッションに憧れますよね」と言われていました。

また、著名なセラピストのデモンストレーション・セッションを見学して、「エレガントなセッションでした」と感動する人もいます。

技芸は真似からというのはそうだと思いますが、私には昔も今も「〇〇先生みたいなセッションをしたい」という憧れがありません。

憧れがない。人に対しても、職に対しても。

デモンストレーション・セッションを見学しても、ほとんどクライアント役の方を見ています。先生セラピストが何をするかではなくて、クライアントに何が起きるかに興味があるのです。

見学会の様子を俯瞰してみると、ほとんどの見学しているカウンセラー/セラピストは先生セラピストをお手本として見ています。私だけ違う方向を見ていて(そのために違う位置に席をかまえていて)、ちょっとヘンな光景だったりします。

※クライアント役が慣れたアシスタントだったりする場合など、先生セラピストの様子(身体反応など)を観るときもあります。

クライアントが求めるもの

私のクライアントはセラピストに何かを期待して来るのですが、それはクライアントにとっての何かです。

エレガントなセッションとか、心理セラピストの素晴らしさを見に来ているわけではないように思います。

ぶっちゃけ、セッションが上手とかも求めていません。

私はセッション中に「ちょっと待ってね」と資料を見たり考えたりしますが、「おい、覚えてないんか」とか「エレガントじゃないな」とか不満を抱くクライアントはいません。ご自身にとって得るものがあるかどうかです。

クライアントは私を選んで申し込むわけです。でも、クライアントはクライアントご自身に会いに来ているのだと思います。

よいセラピストになりたいという想いはありますが、名声を得ている先生セラピストに憧れるということはないです。

尊敬する人はいます。でも、私は私です。

そして、セラピーが上手くなりたいのではなくて、クライアントによい体験をして欲しいのです。

それらは同じことでしょうか?

「なんか不器用なセラピストだったな。結果はよかったけど」

「凄腕のセラピストだった。結果は出なかったけど」

心理職を目指す動機あるある

心理系大学の面接官が言うには、心理職を目指す大半の学生が「私の身近な〇〇が心の問題に苦しんだときに心理職の人が助けてくれました。私もそんな素晴らしい仕事がしたいと思い臨床心理を志しました」と言うそうです。

これもクライアントではなくてカウンセラーが主役のストーリーですね。面接官が「悪いとは言わないが、なんだかうんざりする」と言う気持ちもわかります。

私にはそのような憧れエピソードがない。

そもそも私は心理カウンセラーとか心理セラピストという職業に憧れて、それを目指したわけではありません。

「カウンセリング/セラピーは私の天命だ。私にとって大事な仕事だ」と思うことはありますが、憧れたのではなくて、天命になってしまったのです。

「セラピストになりたい」なんて考えたことはないのです。「セラピストになる」と決めましたが。人からセラピストと呼ばれることよりも、セラピーの実践をすることが本質でした。ですので、自称セラピストです。資格がなくても、クライアントから「あー、これがセラピストだ」と言われます。

心理支援の勉強をしたいという人によくあるのですが、その動機の中に支援対象者が不在になっていることがあります。カウンセラーになるために大学に行ったり、資格取得をしたりしますが、支援対象者の当事者会に参加したり、支援対象者に会いにいって何が必要か尋ねたりはしないのです。そのような人たちは当事者ではなく権威から学びます。

クライアントが私をつくった

私のこの仕事をつくったのは、制度でも憧れの対象でもなく、クライアントの言葉の数々だと思います。

「セラピーをやめないでくださいね」とは何度も言われました。「このようなセッションをしてくれる人にやっと出会えた」など。

上手なセッションをしようという気が、もう少しあってもいいのではないかと思いますが、あんまりないです。

ですが、1回のセッションの準備にかける時間やエネルギーは長いほうだと思います。

Follow Kojun on note.