私のセラピスト観を神話風に

私のセラピスト観を神話風に書いてみます。

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一度も自分を生きたことがない人が、道徳だの倫理だの言って、罪なき人々を叩く。

怖れに負けて人を叩く。人を叩くことに人生を捧げる。

人の道を説くということは、特定の道を外れた者を人間扱いしないという宣言。

叩かれた人を人間扱いする。それは自分を生きた人にしかできない。

叩かれたくないから道を外れない。そこに愛はない。

道徳や倫理という言葉には憎しみが込められている。

怒りを受け入れられないとき、憎しみとなる。

道徳を説く人は「怒っているのではない」と言う。怒りではなく、正しさだと言う。

正しさをまとえば、自分が怒っている理由を観ることはできなくなる。観ることができなくなることを「闇」という。

「闇」を選ぶと、人を叩くことに人生を捧げることになる。

人の世は「闇」と「光」で出来ている。

古来、世界各地に「第三の性」を持つシャーマン、政の相談役がいた。善悪ではなく、光闇を視る者。

人々の不倫理、欲望、道の外にあるものに触れ、光を得る。

「第三の性」が許されないヨーロッパでは、光は「魔」と呼ばれ、狩られる。光が払われた町や宮廷では、光は愚か者として現れる。それが「道」の外に触れる者であることに気づいた人々は、それを道化師と訳した。

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