心理相談ではHSPという言葉は使いにくい

心理相談の現場で私はHSP(Highly Sensitive Person)という概念を自分のラベルに使うことをあまりお勧めしてません。

その特徴をチェックすると、生まれつきまたは三つ子の魂の特性みたいなことと、トラウマ的なことと、愛着不安定と、いろんなものが混ざって当てはまってしまうことがよくあるからです。

おそらく特性のことを指しているのでしょうけど、特性ではないもの(改善や克服できる、変わる可能性があるもの)の場合もあります。

「人は変われる。諦めなくてよい。少なくとも変わった人たちがいますよ」ということと、「それは変えなくてよいものかもしれませんよ」ということを、これらを混ぜてしまうので避けています。

特性ではないものを特性と誤解することは促したくないのです。なぜなら、諦める必要のないものを諦めさせてしまう(克服への可能性を閉じる)からです。

たとえば、虐めや虐待や災害・事故などによって敏感になっているトラウマの場合は、それは解消する可能性があるわけですが、その可能性捨てることを本人が選んだわけでもなく、その性質がアイデンティティ化してしまうことがあるということです。

また、「私は克服や治療を目的に仕事をしているわけではないので、配慮のためにHSPという言葉を使います」とおっしゃる支援職の方もいますが、克服や治療が目的ないのであればなおのこと、「特性だから(生得的、生涯的だから)配慮が必要」というのはお勧めしません。特性であろうとなかろうと、つまり原因がトラウマなどの後天的/当面的であったとしてても、配慮は必要だろうと思います。

どちらかに決めつけることを急がず、それぞれの可能性を観ることはよいことと思います。

なんのための言葉なのか、を大事にしています。

「私に当てはまるわー」というは人気があります。自己同一性のニーズを満たします。それよりも、大切なものがあるように感じます。たぶん、「あてはまるわー」がプロセスのトラップである例を何件も見てきたからかと。

もしくは、HSPは文字通り繊細な人たちの総称であり、特性からトラウマまで原因は問わないという捉え方もあるかもしれません。(私はこちらに賛成したいのですが)

そうすると、かなり多様なHSPがいることになります。

この場合、HSPという言葉は自己同一性(アイデンティティ)の欲求をあまり満たさなくなり、多くの人に期待はずれになるのではと思います。

アダルトチルドレンという言葉は、ただのラベルだと紹介されています。この用語の扱いは好きです。つまり、診断名ではないことが強調されているのです。「私はアダルトチルドレンか、アダルトチルドレンではないか」どうでもいいことで、必要に応じてそのラベルを自分でつけたり外したりしてよいと。情報収集のためのキーワードに過ぎなくて、「私はアダルトチルドレンだ」ありきではないということね。

発達障害の支援団体でも似たようなことが言われていました。「発達障害かどうか」にこだわると上手くいかない(悩みが解決しない、こじれる)と。

「私は○○だ」はアイデンティティ中毒みたいなものかもしれません。

世の規範から外れた苦しみを味わってきたトランスジェンダーは「トランスジェンダー」という言葉に出会い救われたと感じます。「私はトランスジェンダーだ」によって「私は異常だ」ではなくなる。「生きてていいんだ」と。しかし、やがて自分はトランスジェンダーなのでなくて、私は私なのだということを知ることになります。

「私はHSPだ」とラベリングすると、変えられるものを変えられないと思い込んで人生を制限する可能性がある。また、生得的で変えがたい特性と限定すると必要な自他への配慮が届かなくなる(これはあまり起きていないけど)。一方で、「HSPが生きやすくなるコツ」のような情報を探すには便利である。と思います。

「繊細な自他への配慮が必要である」ということと「それは生まれつきで変えることはできない」ということがセットにされてしまう言葉です。

言葉は手段だと思います。

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