最近、共感が必要って、カウンセリングなどでは常識すぎること、書きました。
しつこく批判してきた評価・判断・アドレス(変えようとすること)は、共感しないときに現れる。
ナンパしようと夜道で女に声をかけたら、振り返った相手がノッペラボウだった。ぎゃーっ。逃げて、逃げて、逃げて、見つけた灯りは蕎麦屋。「で、で、でたっ、顔、顔がぁ…」と訴える。蕎麦屋は振り返って言う。「こんな顔だったかい?」
このお話がなんで名作かというと、共感を求めて裏切られるからね。
全ては体験のみからすか得られないです。こんな目にたくさん会ってきた人は、共感ができる。
それを育ませるためのお話だとしたら、恐い目に会う人の視点から書かれているわけです。
クライアント(旅の主人公)経験を避けて、あるいは避けるために対人支援者になった人は、蕎麦屋の役の経験を積む。蕎麦屋の経験では共感は育めない。この会談の主人公を生産するだけ。
さて、主人公はその後どうなるかは語られていません。でも、私は何例も見たことあります。
ほら、こわくなってきた?
ほら、でるよ。
主人公はその後、共感してくれる人に会い、共感できる人になる。うどん屋に出会って、うどん屋になるのね。
うどん屋に出会えず、蕎麦屋に出会い続けたりして、…ついにダークサイドに落ちたら、自分より苦しむ人がみたくなるのかしらね、…最初にナンパしようとした夜道の彼女になるのよ。