スタンス(当事者中心/実存主義)
目次
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人間性心理学・実存主義
在り方や態度としては、手法よりも人間を重視する人間性アプローチに近いです。実存的な対話を取り入れます。
人間性心理学は、「患者」と呼ぶのをやめて「クライアント(依頼人)」と呼び始めました。その立ち位置が精神医学と決定的に異なるところでしょう。
心の成長・変容を重視します。お悩みを「病気」というよりは「人生の大切なプロセス」として扱います。
広い意味での心の病も扱いますが、「病気を治す」というよりは「人生を次へと進める」という感じです。
クライアントが自由になる、その人として存在することが目的です。
また、PTSD、神経症、広義トラウマなどはたいてい人間の正常な反応だと捉えています。
症状の解決にとどまらない、性格や自我機能の永続的な変容を目指す。
『心理療法の交差点2』第一章 妙木浩之(短期力動療法の目的の記述)
実存的精神療法
〔実存的精神療法の定義〕
『ヤーロムの心理療法講義』アーヴィン・ヤーロム
実存的精神療法は力動的な治療的アプローチで「実存」という部分に根ざす事柄に焦点を合わせている。
なんだか難しそうですね。このアプローチが力動的だというのは、「感情や行動が内なる葛藤によって生み出される」と捉えてるよってことすね。
しかし、一般的な精神分析と異なるのは、その葛藤を抑圧された本能とか、過去の重要な人物とか、外傷的な記憶などよって心理学ありきで説明解釈しようとするのではなく、実存の所与(いまここで起きている葛藤そのもの)によって捉えるということです。
心理学を参照していると見えてこないものが、その人をいまここで観ていると見えきます。元来のゲシュタルト療法も実存主義で理論武装を嫌います。
Kojunのセラピーでは、精神分析(交流分析など)も実存療法(ゲシュタルト療法など)も統合しているので、過去にまつわる抑圧や葛藤にも触れることも含めて実存の所与を扱います。
ヤーロムによると、精神療法の究極の関心事は、死、孤独、人生の意味、自由だそうですが、Kojunのクライアントはとくに「自由」を求めて相談に来ます。それは「わかってもらえない」(すなわち、孤独)を癒すことでもあり、そのために人生の意味を見つける(というか、意味がなくても大丈夫になる)プロセスを体験ます。またそのために、人生に終わりがあるということ(すなわち、死)の自覚が心に赦しを与え未来をつくることもあります。
科学よりも体験・実存
科学的であるかどうかよりも、よい体験であるかを重視しています。根拠や説明を、科学ではなくクライアントの実体験の中に探します。[1]科学というデータベースを絶対視せず、理論と実体験と区別することを現象学的態度と呼んだりもします。
Kojunのクライアントは症状の解消を目標にしながらも、そのプロセスを通して心が存在を取り戻したり、生き方が変わることを目的としています。クライアントは「科学」を買っているのではなく「よい体験」を買っていると思っています。(Value Based Approach)
「習った通りにやる」ダウンロード型ではなく、「必要なことをやる」というスタイルはブリーフセラピーと共通です。
生々しい類似事例(他者のストーリー)を紹介して、ご自身の内省を促すことも、Kojun カウンセリングの特徴です。
現代科学の世界では、(デカルトの二元論を元とする)三人称のアプローチが依然として主流ですが、これは当然で、科学的なアプローチとはそもそも三人称アプローチに属するものだからです。ただ、特に20世紀の終盤から、多くのすぐれた(特に意識・脳関係の)科学者たちが、従来無視されてきた一人称のアプローチに存在価値を見出し、それを尊重してきていることもまた事実です。
『ソマティック心理学』久保隆司
「心理学がどうであれ、ぶっちゃけあなたはどう生きたいですか?」というのが一人称の実存的な視点。
共感や聴いてもらう体験を大切にするのがが二人称のカウンセリング。
心理学や研究によってクライアントを分析するのが三人称の心理学。
Kojunのセッションの中では、これら全てが現れますが、一人称>二人称>三人称の順に扱っています。
参考記事::心理支援者の種類~たくさん助けたい人、ひとりを助けたい人
本人中心(当事者視点)
一般的には「クライアント中心療法」、後に「パーソン・センタード」とも言われるものです。Kojunは「本人中心」と訳したいと思います。
原則としては行政の予算でセラピーをしているわけではないので、”社会復帰”や”普通に戻す”ことを重視していません。自分を取り戻すことを優先します。
さて個性化の目的は、一方ではペルソナという偽りの覆いから、無意識のイメージの暗示力から自己を解放すること、それに他ならない。
『自我と無意識の関係』C.G.ユング著
当事者視点での心理支援、すなわち「治療」というよりは「克服支援」を提供しています。「この患者に対しては、どのようにするのがよいだろうか」を中心に考えるのが治療だとすると、Kojunは主に「自分がこのクライアントの立場だったら、どうしてほしいだろうか」あるいは「クライアントが心理のプロだったら、なにを求めるだろうか」を中心に考えています。
「その人を見る」ということは、「その人が見ているものを見る」ということだと思います。
(当事者運動、依存症自助グループは)いずれも、専門家が一方的に定義してきた回復を、当事者の視点から再定義したと言えるだろう。
『当事者研究』熊谷晋一朗著
原則#4 クライアントが支援プロセスの監督者である。
Charles RappらのStrength Modelより
その効果はカウンセラーが与えるものではなく、クライアントが単独で生み出すものでもなく、両者がコミットする共同作業の中で姿を現すものです。(中略)カウンセラーを探すこと自体が、すでにもうそのプロセスの始まりなのです。
『プロカウンセラーの薬だけにたよらずうつを乗り越える方法』杉原保史
ただ、見立て(原因などについての推測)はします。見立てに基づいてワークしようとして、クライアントから「それじゃないんだけどな」という反応があればしめたものです。それじゃなければ何なのかが反応に表れるからです。見立ては当たるから役に立つというよりは、外れるから役に立つのでしょう。
事例重視
多くの人に当てはまる普遍法則のようなもの(すなわち心理学)は活用します。クライアント特有のこともみます。さらに事例ストーリーも重視します。
事例はエビデンスとしてのレベルは低いとされています。しかし、たった1件でも「このような人もいます」という事例がクライアントを助けることがあります。
普遍法則が勇気づけるのはセラピストで、事例が勇気づけるのはクライアントでしょう。
「今日、街ですれ違った人の中にも、自分と似た悩みをすでに克服した人がいる」そんなふうに考えてみてください。事例が持つ力を感じられるかもしれません。
ただし、プライバシーや守秘のことがありますから、個人が特定されないように匿名化したとはいえ、個々の事例そのものを話すことはありません。フィクション化したり事例を混合したりして話ますので、ある程度は一般化された話です。ですが、あたかも1つのストーリーのように表現して話します。また、個人セッションの同意書で、そのように事例(仮想事例)づくりの材料にさせていただくことを予めご了承もいただいています。
詳細なことまで話さなくとも、「あなたのその悩みと同じような人がいました。その人は克服しました/こうなりました」という話は、クライアントにとって決定的な力となることがあります。
普遍法則よりも、個別の事例を重視するということは、釈迦の教えが体系ではなく小話集であるのと似ているかもしれません。
参考ブログ記事:個別のストーリーが必要
精神力動的な治療者は、患者が他の誰とも異なる人生を生きており、技法と戦略は患者個人の特徴に合わせて仕立てられるものであると考えられている。
『精神力動的精神療法 基本テキスト』グレン・O.ギャバード
学術界は事例が苦手
事例についてもう一つ重要なのは、Kojunは失敗事例や上手くいかない事例(上手くいかないあるある)も重視しているということです。これは元当事者であるネイティブセラピストであることと関係しています。クライアント側で情報交換してきたので、たくさんの「上手くいかなかった話」を知っています。
学術界の事例研究は6~8割が成功事例となっていますので、それを臨床現場に応用しても実際にはそんなに上手くいかない(すなわちそれらの事例は代表性がない情報)ということが起こります。
これは専門家がズルをしているというよりも、中断した人(カウンセリングに行かなくなった人)の情報は同意が得にくい、その後どうなったか分かりにくいということもありますので、非成功事例を報告するのは難しいのだそうです。ですが、当事者側ではその情報は流通しています。
当事者側での情報交換は非成功事例が半数以上ありますので、学術界の事例研究とはそこが異なるようです。
Kojunのクライアントの「これまでにこんなことをしてみたけど上手くいかなかった」という報告に対して、「それよくありますよね」という話で安心されることも多いです。
間主観アプローチ
心理カウンセリングのケース見立ては、「理解された感覚/理解できた感覚」を重視します。間主観スタイルでは、主観を大切にしながらも、一緒に主観を超えてゆきます。
「標準化された支援」ではなく個別性を重視します。科学的とされる統計データは、あくまで他人の情報として参考にとどめます。
クライアントがセラピストの存在(生き方や意見)と出会うことで起きる反応を一緒に観察し、本人にとっての真実を大切にしながら、実感や納得のある見立てをします。 [2] 客観的を捨てて間主観的を目指すことをサリバンは関与観察と呼びました。
たとえば、セラピストとの出会いにより、自分のことが解ってくることもあります。たとえば、人前で泣くことができないクライアントの前でKojunが涙を流してみせて「私は涙を見せることができるんですけど、これを見てどう思いますか?」と尋ねることもあります。
参考ブログ記事:間主観アプローチ
ゲシュタルトの祈り
クライアントを弱者として扱わない点、変化よりも選択を支援する点は、ゲシュタルト療法と共通です。
そのクライアントが、自主性があり、自分で癒すことができ、そして統合することが可能である存在であるという信念のもとに成り立っている。
『GESTALT COUNSELLING IN ACTION』クラークソン著
これは他の対人援助職と話していて感じるKojunの特徴でもあります。Kojunは「クライアントが助かる」と言いますが、他の対人援助職の人たちはそれを「クライアントを助ける」に置き換えることがよくあります。これはセラピーとケアの客層の違いかもしれません。[3]参考:「ゲシュタルトの祈り」(ゲシュタルト療法の思想を表す詩)
私は私のために生き、あなたはあなたのために生きる。
ゲシュタルトの祈り(ゲシュタルト療法の思想を表す詩)
私はあなたの期待に応えるためにこの世に在るのではない。
そしてあなたも、私の期待に応えるためにこの世に在るのではない。
もしも私たちが出会えたのなら、それは素晴らしいこと。
たとえ出会えなくても、それは仕方ないこと。
セラピストの治療意図どおりに展開するというよりも、体験を提供するといった感じです。なにが起きるかはクライアント次第です。(ですので、治療効果が測定されて保険適用になるとかは起きにくいです。知識も重視しないので、アカデミックな心理士さんよりは草の根で実践ばっかりやってきた人の方が上手いように思います)
純粋なゲシュタルトワークに比べると、Kojunのセラピーではある程度クライアントの要望や注文に答えるべく意図をもってワークを組み立てます。そこで交流分析が用いられることが多く、その組み合わせはTA・ゲシュタルト療法と呼ばれたりします。Kojunもその影響を受けています。
「修正」よりも「修正できない理由」を重視
矯正的なアプローチは殆ど使いません。なぜなら、矯正的アプローチで解決するようなクライアントは殆どKojunを訪ねて来ませんから。
認知療法には次のような考え方のルーツがあります。
彼らの誤った考えを修正することが気分と機能の改善につながる。
『短期精神療法の理論と実際』(第2章 認知療法)ベック博士ら
ですが、Kojunは「彼らの謝った考え」ではなく「その人にとって必要だった考え」と捉えます。そうすることで、簡単に修正できないときは、修正できない背景を丁寧に扱うことができます。(人間性アプローチを取入れた現代の多くのセラピストたちも同様ではないかと思います)
「修正」「直す」というよりは「人生の宿題」「置き去りにしてきた自分の救済」という感じです。[4]矯正的アプローチは症状自体の統制を目指します。一方で、Kojun等のアプローチは症状ではなく、それを生み出す無意識に統制を試みます。
再決断療法という手法は使いますが、それは「さあ正しく決断し直せ」みたいなものではなく、頑張って決断してきたものを「もういいよ」と手放すような意味での再決断です。そして、それが自然に出来るような状態を目指すことがセラピーです。
とはいえ、矯正的な技法も少しは使います。
たとえば、認知の修正を最終目的とはしないまでも、ケースフォーミュレーション(お悩みのメカニズム解読)では認知療法の基本モデルを用いてスキーマ/中核信念[5]深層心理に刻まれた「私には価値がない」「誰も信じられない」など。の見立てもします。
認知療法で用いられる自己機能比較[6]どれくらい良くなっているかを振り返る、段階的作業課題[7]いわゆるスモールステップ、思考の結果や有効性の評価[8]自分が自分を苦しめていることへの気づき、コーピングカード[9]生活中にリフレーミングを促すメモは使います。
また、「昆虫が恐い」のような恐怖症には、矯正的アプローチである認知療法・系統的脱感作を用います。
参考記事:非公開: いまどきの認知行動療法と感情力動アプローチを比べてみる
ここで矯正的と呼んでいる技法群も、実は強制的ではありません。壊れた機械のごとく「直したがる」治療者や社会へのアンチテーゼを書いているに過ぎないので、いずれは、この項目が不要になることを願っています。

ネイティブ・セラピスト
当事者経験のある心理セラピストです。クライアントの体験が同じだとは思っていませんが、治療者目線にはない当事者目線があります。
深く感情に触れます。クライアントの涙や鼻水でセラピストやアシスタントの服が汚れます(笑)。ですが、「暖かい、安心してできた」という感想が多いです。
ですが、クライアントから「資格者や医者[10] 知識を学んで資格を取って専門家となった人たちさんのところでやったことあるけど、上手くいかなかった」と言うのも何度も聞きました。
次のように問うてみるとよいかと思います。いま自分が求めているのは、「私は学んできました」という支援者か、「私は体験してきました」[11]臨床経験のことではないという支援者か?[12]当事者経験がある人が全てネイティブ・プロフェッショナルではないです。
参考記事:ウーンデッド・ヒーラー(傷ついた癒し手)とヘルシー・ヘルパー(健康な援助者)
孔子は「学びて思わざれば則ちくらし、思いて学ばざれば則ちあやうし」と言ったそうですが、心理セラピーは「学びて思わざれば則ちあやうし、思いて学ばざれば則ちくらし」ではないかと思います。


関連ページ
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脚注
↩1 | 科学というデータベースを絶対視せず、理論と実体験と区別することを現象学的態度と呼んだりもします。 |
---|---|
↩2 | 客観的を捨てて間主観的を目指すことをサリバンは関与観察と呼びました。 |
↩3 | 参考:「ゲシュタルトの祈り」(ゲシュタルト療法の思想を表す詩) |
↩4 | 矯正的アプローチは症状自体の統制を目指します。一方で、Kojun等のアプローチは症状ではなく、それを生み出す無意識に統制を試みます。 |
↩5 | 深層心理に刻まれた「私には価値がない」「誰も信じられない」など。 |
↩6 | どれくらい良くなっているかを振り返る |
↩7 | いわゆるスモールステップ |
↩8 | 自分が自分を苦しめていることへの気づき |
↩9 | 生活中にリフレーミングを促すメモ |
↩10 | 知識を学んで資格を取って専門家となった人たち |
↩11 | 臨床経験のことではない |
↩12 | 当事者経験がある人が全てネイティブ・プロフェッショナルではないです。 |