スタンス(当事者中心/実存主義)
目次
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人間性心理学・実存主義
在り方や態度としては、手法よりも人間を重視する人間性アプローチに近いです。実存的な対話を取り入れます。
人間性心理学は、「患者」と呼ぶのをやめて「クライアント(依頼人)」と呼び始めました。Kojunのセラピーでも、心の成長・変容を重視します。お悩みを「病気」というよりは「人生の大切なプロセス」として扱います。
また、PTSD、神経症、広義トラウマなども、どちらかというと人間の正常な反応だと捉えています。1 広い意味での心の病も扱いますが、「病気を治す」というよりは「人生を次へと進める」という感じです。
クライアントが自由になる、その人として存在することが目的です。
[目的]
『心理療法の交差点2』p4, 第一章 短期力動療法とは(妙木浩之
精神分析と同じ深さのプロセスをより促進的におこすことで、同じ効果をより早く患者にもたらす。つまり、症状の解決にとどまらない、性格や自我機能の永続的な変容を目指す。
実存的精神療法
〔実存的精神療法の定義〕
アーヴィン・ヤーロム『ヤーロムの心理療法講義』p.6
実存的精神療法は力動的な治療的アプローチで「実存」という部分に根ざす事柄に焦点を合わせている。
なんだか難しそうですね。このアプローチが力動的だというのは、「感情や行動が内なる葛藤によって生み出される」と捉えてるよってことのようですね。
しかし、一般的な精神分析と異なるのは、その葛藤を抑圧理論とか、転移とか、心理学ありきで説明解釈しようとするのではなく、実存の所与(いまここで起きている葛藤そのもの)によって捉えるということです。
心理学を参照していると見えてこないものが、その人をいまここで観ていると見えきます。元来のゲシュタルト療法も実存主義であり、理論武装を嫌います。
Kojunのセラピーでは、精神分析(交流分析など)も実存療法(ゲシュタルト療法など)も統合しているので、過去にまつわる抑圧や葛藤にも触れることも含めて実存の所与を扱います。
ヤーロムによると、精神療法の究極の関心事は、死、孤独、人生の意味、自由だそうですが、Kojunのクライアントはとくに「自由」を求めて相談に来ます。それは「わかってもらえない」(すなわち、孤独)を癒すことでもあり、そのために人生の意味を見つける(というか、意味がなくても大丈夫になる)プロセスを体験します。またそのために、人生に終わりがあるということ(すなわち、死)の自覚が心に赦しを与え未来をつくることもあります。
科学よりも体験・実存
科学的であるかどうかよりも、よい体験であるかを重視しています。根拠や説明を、科学ではなくクライアントの実体験の中に探します。2
Kojunのクライアントは症状の解消を目標にしながらも、そのプロセスを通して心が存在を取り戻したり、生き方が変わることを目的としています。クライアントは「科学」を買っているのではなく「よい体験」を買っていると思っています。
「習った通りにやる」ダウンロード型ではなく、「必要なことをやる」というスタイルです。
現代科学の世界では、(デカルトの二元論を元とする)三人称のアプローチが依然として主流ですが、これは当然で、科学的なアプローチとはそもそも三人称アプローチに属するものだからです。ただ、特に20世紀の終盤から、多くのすぐれた(特に意識・脳関係の)科学者たちが、従来無視されてきた一人称のアプローチに存在価値を見出し、それを尊重してきていることもまた事実です。
久保隆司『ソマティック心理学』p.24
「心理学がどうであれ、ぶっちゃけあなたはどう生きたいですか?」というのが一人称の実存的な視点。共感や聴いてもらう体験を大切にするのがが二人称のカウンセリング。心理学や研究によってクライアントを分析するのが三人称の心理学、といったところでしょうか。Kojunのセッションの中では、これら全てが現れますが、一人称>二人称>三人称の順に扱っています。
本人中心(当事者視点)
一般的には「クライアント中心療法」、後に「パーソン・センタード」とも言われるものです。Kojunは「本人中心」と訳したいと思います。
原則としては行政の予算でセラピーをしているわけではないので、”社会復帰”や”普通に戻す”ことを重視していません。自分を取り戻すことを優先します。
さて個性化の目的は、一方ではペルソナという偽りの覆いから、無意識のイメージの暗示力から自己を解放すること、それに他ならない。
『自我と無意識の関係』C.G.ユング著
当事者視点での心理支援、すなわち「治療」というよりは「克服支援」を提供しています。「この患者に対しては、どのようにするのがよいだろうか」を中心に考えるのが治療だとすると、Kojunは主に「自分がこのクライアントの立場だったら、どうしてほしいだろうか」あるいは「クライアントが心理のプロだったら、なにを求めるだろうか」を中心に考えています。
「その人を見る」ということは、「その人が見ているものを見る」ということだと思います。
(当事者運動、依存症自助グループは)いずれも、専門家が一方的に定義してきた回復を、当事者の視点から再定義したと言えるだろう。
『当事者研究』熊谷晋一朗著
原則#4 クライアントが支援プロセスの監督者である。
Charles RappらのStrength Modelより
その効果はカウンセラーが与えるものではなく、クライアントが単独で生み出すものでもなく、両者がコミットする共同作業の中で姿を現すものです。(中略)カウンセラーを探すこと自体が、すでにもうそのプロセスの始まりなのです。
杉原保史『プロカウンセラーの薬だけにたよらずうつを乗り越える方法』p.103
ただ、見立て(原因などについての推測)はします。見立てに基づいてワークしようとして、クライアントから「それじゃないんだけどな」という反応があればしめたものです。それじゃなければ何なのかが反応に表れるからです。見立ては当たるから役に立つというよりは、外れるから役に立つのでしょう。
事例/ストーリー重視
多くの人に当てはまる普遍法則のようなもの(すなわち心理学)は活用します。クライアント特有のこともみます。さらに事例ストーリーも重視します。
事例はエビデンスとしてのレベルは低いとされています。しかし、たった1件でも「このような人もいます」という事例がクライアントを助けることがあります。
普遍法則が勇気づけるのはセラピストで、事例が勇気づけるのはクライアントでしょう。
「今日、街ですれ違った人の中にも、自分と似た悩みをすでに克服した人がいる」そんなふうに考えてみてください。事例が持つ力を感じられるかもしれません。
ただし、プライバシーや守秘のことがありますから、個人が特定されないように匿名化したとはいえ、個々の事例そのものを話すことはありません。フィクション化したり事例を混合したりして話ますので、ある程度は一般化された話です。ですが、あたかも1つのストーリーのように表現して話します。また、個人セッションの同意書で、そのように事例(仮想事例)づくりの材料にさせていただくことを予めご了承もいただいています。
詳細なことまで話さなくとも、「あなたのその悩みと同じような人がいました。その人は克服しました/こうなりました」という話は、クライアントにとって決定的な力となることがあります。
※トラウマインフォームドケアでもヤーロムの集団療法でも「希望」は最初に掲げられいます。心理セラピーも「希望」を持たない人は受けようとしません。その希望はエビデンス(多くの人がそうだよ)よりも事例(そんな人もいるよ)であることが多いように思います。
統計処理された法則定位よりも(または、のみならず)、個別の事例を重視するということは、釈迦の教えが体系ではなく小話集であるのと似ているかもしれません。
専門的には、心理学や効果検証エビデンスのような普遍法則は一般化可能性の活用、事例や物語は転移可能性の活用と呼ばれます。
前者は確率の情報を与える、後者は可能性の情報を与えるとも言えるかもしれなせん。あなたが可能性を求めているなら、お役に立てるかもしれません。
参考ブログ記事:個別のストーリーが必要
精神力動的な治療者は、患者が他の誰とも異なる人生を生きており、技法と戦略は患者個人の特徴に合わせて仕立てられるものであると考えられている。
グレン・O.ギャバード『精神力動的精神療法 基本テキスト』p.3
学術界は事例が苦手
事例についてもう一つ重要なのは、Kojunは失敗事例や上手くいかない事例(上手くいかないあるある)も重視しているということです。これは元当事者であるネイティブセラピストであることと関係しています。クライアント側で情報交換してきたので、たくさんの「上手くいかなかった話」を知っています。
学術界の事例研究は6~8割が成功事例となっていますので、それを臨床現場に応用しても実際にはそんなに上手くいかない(すなわちそれらの事例は代表性がない情報)ということが起こります。
これは専門家がズルをしているというよりも、中断した人(カウンセリングに行かなくなった人)の情報は同意が得にくい、その後どうなったか分かりにくいということもありますので、非成功事例を報告するのは難しいのだそうです。ですが、当事者側ではその情報は流通しています。
当事者側での情報交換は非成功事例が半数以上ありますので、学術界の事例研究とはそこが異なるようです。
Kojunのクライアントの「これまでにこんなことをしてみたけど上手くいかなかった」という報告に対して、「それよくありますよね」という話で安心されることも多いです。
間主観アプローチ
心理カウンセリングのケース見立ては、「理解された感覚/理解できた感覚」を重視します。間主観スタイルでは、主観を大切にしながらも、一緒に主観を超えてゆきます。
「標準化された支援」ではなく個別性を重視します。科学的とされる統計データは、あくまで他人の情報として参考にとどめます。
クライアントがセラピストの存在(生き方や意見)と出会うことで起きる反応を一緒に観察し、本人にとっての真実を大切にしながら、実感や納得のある見立てをします。 3
たとえば、セラピストとの出会いにより、自分のことが解ってくることもあります。たとえば、人前で泣くことができないクライアントの前でKojunが涙を流してみせて「私は涙を見せることができるんですけど、これを見てどう思いますか?」と尋ねることもあります。
参考ブログ記事:間主観アプローチ
ゲシュタルトの祈り
クライアントを弱者として扱わない点、変化よりも選択を支援する点は、ゲシュタルト療法と共通です。
そのクライアントが、自主性があり、自分で癒すことができ、そして統合することが可能である存在であるという信念のもとに成り立っている。
『GESTALT COUNSELLING IN ACTION』クラークソン著
これは他の対人援助職と話していて感じるKojunの特徴でもあります。Kojunは「クライアントが助かる」と言いますが、他の対人援助職の人たちはそれを「クライアントを助ける」に置き換えることがよくあります。これはセラピーとケアの客層の違いかもしれません。4
セラピストの治療意図どおりに展開するというよりも、体験を提供するといった感じです。なにが起きるかはクライアント次第です。(ですので、治療効果が測定されて保険適用になるとかは起きにくいです。知識も重視しないので、アカデミックな心理士さんよりは草の根で実践ばっかりやってきた人の方が上手いように思います)
純粋なゲシュタルトワークに比べると、Kojunのセラピーではある程度クライアントの要望や注文に答えるべく意図をもってワークを組み立てます。そこで交流分析が用いられることが多く、その組み合わせはTA・ゲシュタルト療法と呼ばれたりします。Kojunもその影響を受けています。
「修正」よりも「修正できない理由」を重視
矯正的なアプローチは殆ど使いません。なぜなら、矯正的アプローチで解決するようなクライアントは殆どKojunを訪ねて来ませんから。
認知療法(狭義の認知行動療法)には次のような考え方のルーツがあります。
ですが、Kojunは「彼らの謝った考え」ではなく「その人にとって必要だった考え」と捉えます。そうすることで、簡単に修正できないときは、修正できない背景を丁寧に扱うことができます。(人間性アプローチを取入れた現代の多くのセラピストたちも同様ではないかと思います)
「修正」「直す」というよりは「人生の宿題」「置き去りにしてきた自分の救済」という感じです。5
再決断療法という手法は使いますが、それは「さあ正しく決断し直せ」みたいなものではなく、頑張って決断してきたものを「もういいよ」と手放すような意味での再決断です。そして、それが自然に出来るような状態を目指すことがセラピーです。
(人間学的心理学の説明より)
こうした側面は、認知の歪みを解釈によって正す、あるいは行動を機械的に再条件づけることを目的とする、従来の心理療法の弱点を補う役割を果たしているものといえましょう。
『新しい交流分析の実際』p.42, 杉田峰康
とはいえ、矯正的な技法も少しは使います。
たとえば、認知の修正を最終目的とはしないまでも、ケースフォーミュレーション(お悩みのメカニズム解読)では認知療法の基本モデルを用いてスキーマ/中核信念6の見立てもします。
認知療法で用いられる自己機能比較7、段階的作業課題8、思考の結果や有効性の評価9、コーピングカード10は使います。
また、「昆虫が恐い」のような恐怖症には、矯正的アプローチである認知療法・系統的脱感作を用います。
参考記事:いまどきの認知行動療法と感情力動アプローチを比べてみる
ここで矯正的と呼んでいる技法群も、実は強制的ではありません。壊れた機械のごとく「直したがる」治療者や社会へのアンチテーゼを書いているに過ぎないので、いずれは、この項目が不要になることを願っています。

ネイティブ・セラピスト
当事者経験のある心理セラピストです。クライアントの体験が同じだとは思っていませんが、治療者目線にはない当事者目線があります。
深く感情に触れます。クライアントの涙や鼻水でセラピストやアシスタントの服が汚れます(笑)。ですが、「暖かい、安心してできた」という感想が多いです。
ですが、クライアントから「資格者や医者11さんのところでやったことあるけど、上手くいかなかった」と言うのも何度も聞きました。
次のように問うてみるとよいかと思います。いま自分が求めているのは、「私は学んできました」という支援者か、「私は体験してきました」12という支援者か?13
参考記事:ウーンデッド・ヒーラー(傷ついた癒し手)とヘルシー・ヘルパー(健康な援助者)
孔子は「学びて思わざれば則ちくらし、思いて学ばざれば則ちあやうし」と言ったそうですが、心理セラピーは「学びて思わざれば則ちあやうし、思いて学ばざれば則ちくらし」ではないかと思います。

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