本人中心セラピーと矯正セラピー

カウンセリングや心理セラピーの本人中心ってどういうことなのか、ちょっと過激に述べてみます。

更生プログラムの中のセラピー

再犯防止のために刑務所の中で行われる改善指導や、仮釈放者への処遇プログラムの中に心理支援が含まれます。

これは当然ながら行政モデルです。法務省ですね。更生保護については、ボランティア団体の思想も入っているようです。

罰するだけでは人は変わらない。他人からの強制だけでなく、本人自身の気づきや意思に基づいて変わってもらうために心理支援の技法が使われるということでしょう。

傾聴や受容などの要素が含まれていますが、目的を決めているのは本人ではなく行政や治療者です。なので、根底には人を変えようとする意図があり、究極的には本人中心ではありません。

やはり、矯正的な手法である認知行動療法が中心となります。

コンバージョンセラピー

これは同性愛者を治療して異性愛者に変える救済プログラムなどです。

心理セラピーの手法を使いながらも、罰と恐怖によるプログラムであることも多いです。これらもセラピーと呼ばれています。

宗教的な儀式、自己啓発セミナー、企業研修などでも人を変えるために心理技法が使われていました。

更生プログラムもどきですね。

福祉モデルの心理支援

今後に心理支援が拡大されそうな行政モデルの領域です。

国(主に厚労省)が法律や指針を定めて、サイコロジストを養成し、国民を心理支援するというものです。

費用を国が負担してたり、国家権力でないとできない社会的障壁の除去に取り組めるのは、ありがたいことですが、行政中心という限界があります。

本人の意思は尊重されるものの、心理支援が提供される背景目的は本人ではなく行政によるものです。

メンタル不調者の就労支援サービスが、本人の幸せのためではなくて、国の就業率を上げるためにデザインされているような印象を与えるのもそのためかと。

医療モデルのセラピー

これも行政モデルの一部です。

もともとは、精神病や子供の素行症が精神医療の対象でしたが、ある時期から気分障害(鬱など)などの本人市場(本人が望んで通院する)へと急速に拡大されました。

医療倫理の中でも「本人の主体性」「本人の意向」は大きな柱と定められているので、更生プログラムよりは本人寄りかと思います。

ですが、医療には「悪いところを治す」「治療者が治す」という思想が根底にあります。

ですので、無理強いはしないまでも、正解は治療者が決めるようなところがあります。

また、セラピストを選ぶのは本人ではなくて医師である場合が多いです。

手法は認知行動療法や暴露法などの矯正的なものが普及しやすいです。

開業モデルのセラピー

ここでは、開業セラピストの全てではなくて、クライアントの依頼に基づきて本人中心で行うセラピーという意味です。

「患者」ではなく「クライアント」と呼ぶことがそれを象徴しています。

開業モデルは私設心理相談室などが担ってきました。

行政モデルから外れるという点は、なんとなく医療の自由診療にも似ています。

「商売っぽくて汚らわしい」と言う人もいます。

商売っぽさと表裏には、本人中心アプローチの本質、セラピストをクライアント本人が選ぶということがあります。

本人中心的な技法を取り入れても究極的には本人中心とはならない更生プログラムとの違いは、「クライアント本人がセラピストを探す」ということにあると思います。

また、福祉や医療ではある程度選べますが、国や医師によって予め選ばれた候補の中から選ぶことになります。

開業モデルの本質は、与えられた候補の中から選ぶのではありません。ほんとうに選ぶのです。

ですから自分のセラピストが見つかるまでに10年以上かかることは珍しくありません。

国が定める目的や、社会規範によらず、本人の依頼や望みに基づいてセラピーが行われます。

もちろん違法なことやセラピスト倫理に反する支援はお断りするのですが、セラピストが目的を決めることありません。

たとえば、本人が幸せになりたくないと決めれば、それが尊重されます。

そこには「正しさ」という価値観がありません。

手法は傾聴を中心としたもの、コンテイニングなどが使われている印象です。

開業モデルはもっとも多様性のあるモデルですので、矯正ぽい、本人中心ではない開業セラピストもいます。

本人中心でしか起きないこと

変えないから変わる

人を変えようとしないから、人が変わるという領域があります。

更生プログラムや福祉などて行われている、無理強いしないテクニックはこれを模倣したものと言えます。

医療なども無理強いはしませんが、「治す」という職業アイデンティティがあります。治すことが治療者の価値なのです。

セラピーセッションにはセラピストの生き方が現れるので、「治す」がセラピーセッションの中で表れてしまいます。もしくは、それを隠そうとして、不介入徹底というロボットぽい冷たさが出ます。

数年間にもわたって薬漬けのまま通院させるなんてのも、ここで言う「治さない」とは違います。

心理セラピーをしていると、クライアントがメソッドのシナリオを逸脱することがあります。そのときにセラピストは「あ、逃げた」と感じます。そのときに、一緒に逃げることが出来るか。そこから逃げることは専門家として失格です。おそらく治療成果も出ないでしょう。それでもクライアントを信じて一緒に逃げる…すると、本当は逃げていたのではなくて大切なものを守っていたのだということが分かります。

「やっと成果が出そうなのに、ここで逃げてしまうか。でも、それがあなたの望みなら、どうぞそうしてください」

そうすると、「初めて一緒に逃げてくれる支援者に出会えました。初めて救われました」となって成果が出ることがあります。

これを成果を出すためのテクニックにすることはできません。なぜなら、クライアントと一緒に逃げると、ほんとうに成果が出ないこともあるからです。

不登校支援に喩えるなら、「べつに学校にいかなくてもいいよ」と言って学校に行かせるためのラポールを作れないといったところでしょうか。

「私は学校に行かなかった。そんな自分を否定していない。だから、君がどっちを選んでも応援する」と言われたときに、学校に行く子もいるけど、行かない子もいるってこと。

「あんたがそんなこと言ったら、行かななったままじゃないか」という批判を恐れるなら、そんなカウンセリングはできません。

もはや正しいカウンセリングではないから。

でも、私自身は正しくないカウンセリングに何度か助けられて生き延びました。

未知なるものへの対応

不登校の支援は学校に行かせることでした。そのために、強制的な方法ではなく、カウンセリング的な技法も使われていました。それは、北風か太陽かという戦略の違いであって、学校に行かせるという目的は本人以外の他者からもたらされていました。

今日では、不登校の支援は学校に行かせることに限定されず、通信教育などの手段を整備して、”たとえ不登校であったとしても”教育機会を提供することが国の義務と定められていす。(教育機会確保法)

行政モデルでは、「学校に行かなくてもいいのかもね」というカウンセリングは、今日では可能だけど、かつては不可能だったわけです。

究極的に本人中心のカウンセリングでは、時代背景や行政の意向によらず、それができるわけです。

ですので、セラピストというのは社会規範に従わない異端者という役割があったのです。

人々の悩みの中には、社会規範や制度が追いつくのを待っていたらサバイブできない問題があります。

シャーマン、魔法使い、宮廷道化師、神話の遇者などと同様、社会の辺縁にしか存在できないのかもしれません。

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