クィアな私は以前はただの「変わった人」として地域に溶け込んでいましたが、LGBTQ騒ぎのせいでちょっと生きにくくなりました。
日本ではSOGIEが浸透しない。独特の差別構造があるために、いまだにLGBTQです。
日本特有の性質として、お手本通りでなければいけない、教科書通りでなければいけない、前例がなければいけないといのがあります。LGBTQも教科書に載っているとおりのLGBTQでなければ許さないという風潮があります。
日本は本来はマイノリティに寛容!?
八百万や万葉の世界観をもち、神も仏もなんでも取り入れる。
かつて手の指が四本の奇形児は西洋では魔女狩りの対象でしたが、日本では神の使いとされました。
セクシャリティやジェンも、静養から戸籍制度を輸入するまではおおらかだったようです。
キリスト教の影響が小さい
キリスト教文化による男女二元論への執着は弱そうです。
「神はお前らを絶対に許さないぞ」というような宗教的な差別は日本では見かけません。なので、裁きを下すようなニュアンスの攻撃はあまり多くありません。
他国のように、矯正するとか射殺するというような暴力は少なく、どちらかというと見捨てる、排除するという感じです。
心理の世界の虐待とニグレクトの違いに似ています。「ニグレクトも虐待の一種だ」と言っていてはトラウマの解決プロセスを誤るように、ヘイトクライムと排除による差別は扱い方が異なるように思います。他国の真似すればよいというものではなさそうに思います。
日本は「見て見ぬふり」型の差別
直接暴力は少なくて差別があるというのが日本の特徴かもしれません。
攻撃もしないけど、助けもしない、といった感じでしょうか。
日本での差別は間接的で、差別と気づかずに排除していることが多いです。「わたしは差別なんかしない」と言う人ほど差別しています。
アンチは、「LGBTQフォビア」と「見て見ぬふり」から成り立っていると考えてみましょう。
LGBTQフォビア
ホモフォビア(同性愛者嫌悪)、トランスフォビア(トランスジェンダー嫌悪)を総称してLGBTQフォビアと呼ぶことにします。
未知なるものへの怖れ、気持ち悪い、価値観や常識が壊れることへの怖れなどです。恐怖症の人の心理とそっくりです。
で、日本ではこのフォビアが大きくないということかと思います。
あからさまにわかる異性装をしていても、ロシアや韓国のように路上で見知らぬ人に責められることはありません。インドネシアのように、わざわざ引きずり出されてガソリンをかけられたりはしません。
LGBTQの存在そのものに恐怖するファビアが殆どないからです。
巻き添え恐怖
LGBTQを拒絶する人の多くは、「私はいいんだけど、取引先/近所が嫌がるかも」と言います。
異性装も路上で責められることはありませんが、服店や飲食店の店主が嫌がることは希にありました。
他人なら平気だけど、同僚となると嫌がります。家族だと「死んでくれ」とか「二度と実家に来るな」とか言います。人間関係が近いほど反発があります。
つまり巻き込まれたくないということです。
巻き込まれるという恐怖ですね。
これは「イジメられたくないから、イジメる側に加わる」という心理と似ています。
パワハラの相談に組織トップが見て見ぬふりをする。校内のレイプ事件の相談を教職者はもみ消そうとする。これらの性質と通ずるものを感じます。
「関わりたくない」が日本でのマイノリティ排除の本質のように思います。
立場ある人たちが、巻き添えの恐怖に弱いというのは、人と人の繋がりの弱さとも関係ありそうです。
LGBTらしさ圧力
テレビや啓蒙映画はトランスジェンダー当事者として有名な活動家しか取材しません。有名な活動家のみによってトランスジェンダー像、Xジェンダー像が作られている点は注意しましょう。
参考:「Xジェンダー」という言葉だけでは社会はあんまり変わらない
マイノリティ内の差別
LBGTQはマイノリティの気持ちがわかるので、他者を差別したりしないとお思いでしょうか。そうとも限りません。
マイノリティの中にもヒエラルキーや同族嫌悪というものがあります。
かつてはゲイの人たちが異性装者をリンチするなんてことはありました。
性別適合医療をしているトランスジェンダーが、そうではないトランスジェンダーに対して嫌悪をいだくということもあります。
日本の社会は多様性を認めることが苦手なので、トランスジェンダーに配慮すべきだということになると「トランスジェンダーらしさ」(たとえばトランス女性は女性のような整形手術をして容姿であることが当たり前であるとか)というのを決めて、それに当てはまらない者を排除します。
ですので、マイノリティ内の格差を社会が後押しする構造となっています。
LBGTらしい人は「LBGT」という資格を手に入れて、差別される側から差別する側へと昇格しているわけです。
お役所的な啓蒙が生み出す差別
2018 法務省の人権啓発ビデオ
このような研修・啓発コンテンツは、全ての人向け(どちらかというと、受け入れられない人たちを考慮して)に制作されるかと思います。
たとえば、ビデオの中で「趣味でも病気でもないのに」という台詞があります。「趣味なら差別してよい」「病気なら差別してよい」という新たな差別をつくってゆきます。当事者は「趣味ではないLGBT」などの規範、社会が認めるLGBT像、LGBT優等生をしっかり守るように求められるわけです。
本来の人権は「彼らは人間です」なのですが、お勉強に頼ると「LGBTを上から目線で受け入れましょう」みたいなことになってしまうのです。
ぶっちゃけ、私は動画で紹介されているような「ダイバーシティ推進室」があるような会社には勤めたくないです。(推進室の人たちに実際にお会いしたことありますが)
そして、このようなことを言うと「ひねくれてる」と言われるわけです。当事者が拒むことのできないダイバーシティ推進ってなんなんでしょうか。
「ダイバーシティ推進ビデオがキモイ」と一緒に言ってくれる人がいる職場がいいなと思います。
正義のお面 ~ 政治利用・ビジネス利用
一つは、差別を解消してゆくという流れの中で、政治やビジネスに利用されるという場面や側面も出てきています。
多くの支援情報もそれ自体がビジネスでもあったりします。
マスコミは大喜びで正義のお面を被ります。それはジャーナリズムのようなもではなくて・・・。
当事者としては、社会の変化を望みながらも、利用されている感じもあるといったところでしょうか。
制度的なこと
同性婚・パートナーシップ条例
同性婚については、同性愛者カップル(ゲイ、レズビアン)に関係するものと思われがちですが、トランスジェンダーにも関係があります。「戸籍変更していないトランス女性(戸籍上男性)とシス男性(戸籍上男性)のカップル」等も法律上は同性婚になります。
同性婚ができなくて困ること 日本では、法律上の性別が同じ2人は、結婚ができません。 日本で同性どうしで愛しあうことは自由…
戸籍上の性別変更
(手術要件削除を求める意見)
これについては、入門者が意見をもつのは難しいかもしれませんが、手術要件があるのは世界的に当たり前のんことではないということは知っておいてよいでしょう。
正しさを求めても答えは出ないかもしれません。世界が変わってゆくよという話かもしれません。
多様化する差別
マイノリティによるマイノリティの差別
マイノリティによるマイノリティ差別もあります。
ゲイがバイセクシャルを「中途半端なゲイ」「裏切者」であるとして批判するということもありました。
容姿の良いトランス女性が容姿の悪いトランス女性を当事者コミュニティから排除したり、吊るし上げる(トランス女性警察)というのもありました。
非典型LGBTへの差別
性別違和(旧 性同一性障害)の人権を認めましょうと意識が高まる反動で、「性同一性障害」の診断書を持っていない人や、軽度の性別違和、ノンバイナリー(Xジェンダー、両性・無性・中性など)、迷っている/曖昧にしたい人など(LGBT未満とでもいいますか)はLGBTのニセモノのように扱われてパッシングを受けることがあります。
身体の性適合治療を望まないトランスジェンダー(トランスセクシャル以外のトランスジェンダー)が、「性適合手術をしないのは、人生から逃げているからだ」と責められることもあります。
多くの職場では、容姿の完成度が低い(?)トランスジェンダーをトランスジェンダーのニセモノと判断して採用拒否しています。
「男らしく・女らしくあるべき論」の縛りよりも、「トランスジェンダーらしくあるべき論」の方が強烈だったりします。
「性同一性障害」という言葉の呪い功罪
いまは診断マニュアルから削除されたこの言葉は、まるで心に客観的に性別があるかのような、まるで人間の心に「男」または「女」いずれかのマークが刻まれているかのような誤解を与えてきました。
ところが、「性同一性障害」という存在が社会的に認知されてゆく過程で、たとえば、「性同一性障害と女装は別」などの認識が同時に広まった。(中略)コミュニティの間に深い溝ができた。
『トランスジェンダリズム宣言』医療問題 いつき
教育や医療現場向けのハンドブックにも「トランスジェンダーとは心と体が逆の性別をもつ人」というようにノンバイナリー(Xジェンダー)を排除する記述がされています。
バイナリーなトランスジェンダー像(バイナリー・トランスジェンダー)がつくられました。
ドキュメンタリー映画『ぼくが性別ゼロに戻るとき』では、「性同一性障害」ということばに救われたかに思えた親子が、バイナリーからノンバイナリーへと転じるストーリーが記録されています。
「性同一性障害」「トランスジェンダー」という言葉を必要としていたのは、当事者ではなくて、理解できないものは排除しようとする雇用者や学校だったとも言えるでしょう。上司を説得するために診断書をとったり、手術をしようとしたりする人は実際にいます。そして手術後に自殺する人もいます。
「性同一性障害か、それとも女装趣味か」ということが問われることがよくあります。
「性同一性障害は病気だから仕方がない。女装趣味は許せない」という気持ちをもつ人は多いです。
どちらも人として尊重しましょうなんて言いますと、頭に血が上って怒りだす人がいます。
私が乱暴な人にからまれたとき、ある女装趣味さんは体をはって助けてくれました。とても優しくて人気者の熟年女装趣味の方に会ったこともあります。一方で、性格の悪い性同一性障害さんにも会ったことがあります。
信じられませんか? 「うそだ。旧・性同一性障害の人に悪い人はいないはずだ。女装趣味の人はろくなやつじゃないはずだ」と思いますか?
「旧・性同一性障害か女装趣味か」を問う本当の理由はなんでしょうか?
これには「トランスセクシャル(身体を性別移行したい/した者)かクロスドレッサー(異性装者)か」という観点と、「趣味か趣味でないか」という観点が混在しています。
トランスセクシャルかクロスドレッサーか
なんとなく、トランスセクシャル(旧・性同一性障害はこれに近い)=本物のトランスジェンダー、クロスドレッサー=偽物かもしれない、みたいな感覚が社会にはあるようです。
これはおそらく、日本の法律が「戸籍を性別移行するためには身体を性別移行しなければいけない」としているために、戸籍を変えた人のほとんどがトランスセクシャルということと関係していると思います。
しかし、クロスドレッサーの中にも、性自認が女性に近い人はいます。身体を移行しなくても自分は女性/男性だとしっくり感じる人などです。
トランスセクシャルの人の中にも、性自認が男性に近い人もいます。つまり、身体を女体化したい男性ですね。
女装趣味か趣味ではないか
「自分で選べないのだから差別してはいけない」と言う人もいますが、「女になりたいから女になった」のは許せませんか?
それが許せないのは、なにを心配しているのでしょうか?
これについては、いつかまた書いてみたいと思います。
LGBTQに要求される3つのこと
人々がマイノリティを受け入れるきっかけとしては、次のようなものもありました。
- かわいそうなら許す(悲惨な実話やドキュメンタリー)
- 面白い/ウィットなら許す(オネエタレントの活躍)
- 美しい/実力者なら許す(美形女装、エグゼクティブ)
あなたは、これらが備わっていなくても、受け入れることができるでしょうか?
先生たちがカミングアウトしたら
2018年に中学校の教科書にもLGBTが載ることになりました。カミングアウトされた先生、私塾先生のお話も聞いてみましょう。
2018-2019 かずえちゃんの動画
心理セラピストによる LGBTQ・SOGIE 心理ガイド