当事者は心理専門家を待ってられない

教科書的に正しいこと以外は間違っているという風潮

そんな風潮が臨床心理の世界にはあるようです。

教科書に従っていない心理支援者を「自己満足のカウンセリングをしている」とつるし上げる風潮。

「最新の学術情報を知らないんですかあ?」と非難するみたいな専門家もいるそうです。

教科書に従って仕事をする専門家も必要ですが、一人ひとりの違いを探求する心理支援者も必要だと思います。

知識中心の専門家は、クライアントと教科書が一致したときに「理解できた」と思います。

本人中心のセラピストは、クライアントとセラピストの間の納得感(理解されたという感じ)を重視します。納得感がプロセスを進める勇気をくれるからです。独りではないということが重要な場面もあります。

学術データほど客観的でもなく、独りで思い込むほど主観的でもない、それを間主観といいます。

客観、間主観、主観の全てが大事なのですが、当事者体験がない専門家は客観のみで支援をするべきだと考えがちです。

当事者は正解を待ってられない

専門家にとって重要なのは「最新の正解」に自分がキャッチアップしているかどうかですが、当事者にとっては「最新の正解」が自分にキャッチアップしているかが問題です。

試行錯誤してでも、自分の正解を探す必要があります。

まだ学術的に証明されていなくても、試す価値があるかもしれないです。学術的に否定されていても、試す価値があるかもしれないです。

人生は待ってくれませんから。

私のジェンダー特性はかつて性的倒錯とされていました。専門家の教科書が改まるのを待っていたら死んでいたでしょう。

そしていま未だ性的倒錯とされている特性を持つ人たちも相談に来ます。その人たちは今この瞬間を生きているので、5年後に専門家が認識を変えるまで幸せを待つ必要はないのです。

以前は、統合失調症は不治であると言われていました。

あるとき、私がお手伝いしていたワークショップに統合失調症の方が申し込まれたのですが、ワーク内容が病状に影響する懸念があったので参加をとりやめてもらうということがありました。そのとき、当人はこんなふうにおっしゃいました。

「わかりました。統合失調症が治ったら参加しにきます」

それを聞いた専門家たちは、あとで「統合失調症は治らないんだけどね。本人は治ると信じてるんですね」なんて言っていました。

当人とゆっくりお話ししていた私は、「なにやてるんだ、すぐにお断りしないとだめじゃないか」と叱られました。ワークショップに参加できないという判断はそうだとしても、せっかく来たんだから当人の「治す方法を探しているんだ」というお話を聴くくらいいいじゃないかと違和感を感じたものです。

そして、数年後のいま、統合失調症が治った事例はたくさん聞いています。当時「治らない」と言われていたのですが、それは当時の専門家の決めつけだったんですね。

その方が「治らない」という専門家の知識に触れなくてよかったなあと思っています。

本人が「きっと治る方法がある」と信じるために、専門家や学術界を待っていてはいけないのです。

今では1か月以上使うと危険とされている向精神薬が、かつては教科書どおりに数年間投与されていました。その当時から、当事者の違和感に耳を傾ける医師はいて、薬を減らしてもらったらすっかり良くなった話は何件も聞いています。

専門家の教科書も役に立ちますが、それが絶対で、それ以外の可能性を考えてはいけないとういのは恐ろしいことだと思います。

学者としては、学術が進歩しているってことだからいいんでしょうけど、当事者にとっては専門家の限界に付き合わされるのは、たまったもんじゃありません。

ですから、どの時代にも、定説とは違うことを試している人たちがいていいと思います。正解を1つに決めて、それ以外を撲滅しようとする心理業界の風潮は学者が「え、知らないんですか?」と言って優越感にひたるためのもの。

たとえば、最近だと「ダブルバインドが統合失調症の原因になるという説は否定された。原因は遺伝である」というようなことが最新情報になっていますが、どうしてそのように全否定するんでしょうね。教科書の最新版にキャッチアップすることを重視してるんですね。

私は統合失調症の専門ではないですが、何人かの当事者とお話した感じから、ダブルバインドが統合失調の原因になるという説にも一理あるんじゃないかなと思っています。でね、「専門家じゃない人間がてきとうなことを言うな」「証拠はあるのか。証拠がないなら黙れ」っていうのを問題視しているんです。私の意見が正しくない可能性があるのは当然です。定説以外は黙れという風潮に懸念をもっているんです。

と思っていたら、米国では「やっぱり遺伝だけでなく、環境(ダブルバインドなど)も原因になるんじゃないか」ってことになっているそうです。

ほらね。また定説が変わるでしょ。

そのたびに当事者の選択肢をつぶすのはやめてほしいです。

「それも一理あるが、これも一理ある」というのができないとカウンセリングできないんですけどね。・・・って話をしたら、日本ではガチのカウンセリングしたことがない人が大学でカウンセリングを教えていると言われました。

スタンダードを整備することは、スタンダード以外を否定することではないはず

「支援に完璧はなく、支援は常に進歩し続ける。その時代のベストを提供するしかない」というのは、その通りでしょう。

ですが、その時代のベストなどはないと思います。その時代にベストだと権威や多数派が思っているスタンダードがあるのだと思います。

その時代のスタンダードを提供することを批判しているのではなりません。

その時代のスタンダード以外を提供することを禁止することを批判しています。

スタンダードな支援を提供している人と、スタンダード以外の支援を撲滅しようとしている人は区別したいと思います。

それはこのこととも関係しているように思います。

最近では「こういうことを勉強していない人はカウンセラー失格だよ」という言い方をよく聞くようになってきました。かつての心理支援業界では「こういうことも勉強しておいたほうがいいよ」と言われていました。前者のほうがちゃんとした業界をつくるように聞こえるかもしれませんが、実際には後者の世界のほうがクライアントにとってもよい業界だったように思います。

ひとつの時代にひとつの正解という制約はいらない

科学的根拠はあるのか、とか言って、論争に負けた説は扱ってはいけないという制限に不気味さを感じます。「いまは、こちらの説が優勢です」くらいでいいじゃないですか。

〇〇障害にはカウンセリングは効かない/悪影響があるなんて言われていて、のちにカウンセリングで助かった事例が出てくるなんてよくあります。つまり、その当時の主流のカウンセリングが効かないからといって、どんなカウンセリングをしても効かないってことに決めつけるんですね。

それは、ほんとに可能性をつぶしてゆくおそろしい風潮だと思います。

ミルトン・エリクソンは、専門家の常識にとらわれる「なんでもやる」人だったらしく、それはアンコモン・セラピーと呼ばれています。犬恐怖症のクライアントがきたら、自分も近所の犬に噛まれてみようとするKojunもちょっとアンコモン・セラピーかもしれません。

教科書通りじゃないことをすると「失敗したらどう責任をとるんだ」と追及されるが、教科書通りだと失敗しても責任を追及されない。教科書のせいにできるから。だから、専門家は教科書通りにしかやらない。いつも当事者ではなくて教科書を見ている。

当事者は、教科書どおりが上手くいかなかったとき、専門家を追い抜く権利があると思います。

参考:『ミルトン・エリクソンの心理療法 出会いの三日間』ジェフリー・K・ザイク著

Follow Kojun on note.

最新情報をチェックしよう!
>note もよろしく

note もよろしく

noteでは、もちょっとホンネでつぶやいています。