私は若き頃に、クジラの声や海の音を収録した環境音CDを購入したことがあります。
ブクブク泡のおとやキューというクジラの声などに聴き入ります。それは私が聴きたかった音でした。
ところが、そのCDは編集のつなぎ目で、フェイドアウトもせず、ブチっとカットして継ぎ接ぎしているのです。
環境音が不連続にぶった切られることは、海の中にいるかのようなイメージの中にいた私のマインドにとっては、心が怪我をしそうなほど乱暴なことでした。(映像に伴う音であれば怪我しないかもしれません)
CDの編集者にとっては、泡の音なんてデタラメなんだから継ぎ接ぎしたら連続になる・・・とでも思っていたのでしょう。
泡の音が形としてそこにあるかのように知覚している私と違い、編集者は「あー、これは泡の音だ」と解釈していたのでしょうか。だから、フェイドアウトせずにつなげば、切れ目なく泡の音が続いているように聴こえると思ったのでしょうか。
そして、日常生活の中でも私は同じような傷つきを重ねてきました。それは音やモノの位置、人間の振る舞いなどです。物事の不自然なつながりを、まるで物理的な鋭利さのように感じるのです。ちょっぴり共感覚っぽいところがあります。
人の振る舞いについて言えば、たとえば、「世界にはご飯も食べられない人もいるのよ」などと説教する人がいます。私には鋭利な角のようなものが感じられます。人を傷つける暴力の要素をそこに感じ取るのです。それは「見える」かのような感覚です。普段は世界の人々のことなど気にかけてもいないのに、説教するときだけそんな台詞が出て来ている。ご飯を食べられない人の気持ちなど屁とも思っていないのが私にははっきりと感じ取られます。目の前の人の気に入らないところを攻撃するための道具として、世界の食べられない人たちを引き出してきたことがはっきりとわかります。
あのCDの海の音が引き裂かれた編集の継ぎ目がはっきりとわかってしまうように。
このような半透明な暴力とか攻撃のようなものが人間関係や社会のなかに溢れています。それに傷つく人たちも、なぜ自分が傷ついているのか分かりません。傷ついた人たちは、傷ついていることに気づかないので、まるで悪い人のように振る舞い始めます。たとえば、理由もなく機嫌が悪くなる自分と言った具合にです。でも大丈夫、あなたは痛がってもよさそうですよと、私はそれを認めるという役割なのかもしれません。