あなたを助ける心理セラピストはいない

Kojun

あなたを助ける心理セラピストと、あなたが助かる心理セラピストは異なります。

あなたを助ける心理セラピスト

タイトルには「いない」と書きましたが、まあ、いなくはないです。再現性のあるメソッドを使って何かを治すセラピストですね。

いないどころか、これになりたい心理職は多いようです。

とくに心理師養成大学院とかに行く人たち、なんらかの支援メソッドを習う人たちの多くは、人を助けることに憧れて心理職を目指すわけですから、あなたを「助けたい」のです。「助ける人になりたい」と言うと分かりやすいかと思います。

その世界観は、助ける自分、助ける方法、そして最後に助ける対象者です。ですから、何よりも大切なのは自分が立派であること、次に「どうすれば助けることができるか」に関心があります。よく研修では「こんな時はどうすればよいでしょうか」と質問します。

また、自分が人を助けたいのですから、自分とは異なるバックグラウンドの支援者を嫌います。「大学で心理学を学んでいない人がカウンセリングをするなんて許せない」とある心理師は言いました。「助ける」ために心理師になったのでしょう。

あなたが助かる心理セラピスト

一方で、あなたを助けるのではなく、あなたが助かるセラピストというのがいます。私はこちらです。

手法が消極的という意味ではありません。

「どうやって人を助けるか」と言う学び方をしていないのです。「どうやって人は助かるのか」を学んできたのです。つまり、まず、当事者がいて、次に克服プロセスの目撃や体験があって、実践メソッドとして理解して、そして最後にセラピストという職業があるのです。

支援メソッドと実践メソッドの違いとも言えます。ですから「こんなときはどうすればよいですか」と質問することは少なく、「それをすると本人はどうなりますか」と質問することが多いです。

私が誤解していた「ホンモノ」の心理セラピスト

心理セラピーを学び始めたとき、「ホンモノの心理セラピストは国内に数人しかいない」と聞いたことがあります。私たちはその「ホンモノ」というのは、支援ハウツーを知っているだけではなく、実際にその体験を生きているのセラピストのことかなと思いました。国内に数人というのはおおげさですが、まあ少ないかもしれないなあと思いました。

人を助けることに憧れて支援者になった人は、私たちが助からない(助ける方法を知らない)となると私たちを攻撃し始めます。助からない私たちの存在を認めその世界に留まってくれる、そんな人をホンモノのセラピストだと思ったのです。

しかし、これには誤解があったことに、ある人から「ホンモノなんかになったらダメよ」と言われて気づき始めました。

後に「ホンモノ」の元の意味は、臨床心理学の分野で「海外留学などして権威あるトレーニングを受けてきた人」を指すことが判明しました。真逆の意味でした。

魔法のような特別な技を身につけた人というイメージが、ホンモノと呼ばれていたのです。しかしそのような人は、一般ピーポーを見下して馬鹿にした人たちです。「先生のおかげで助かりました」なんて言われるために修行してきたみたいな。(言われることが悪ではありません。それが目的かどうかってことです)

そういのがホンモノと呼ばれていたのです。

私は逆の意味のホンモノであることを大切にしていました。クライアントからも「やっとホンモノのセラピストに出会えました」と言われていました。

しかし、そのことを話すとカウンセリングルームのオーナーを怒らせて契約を取り消されたりするので、へんだなあと思っていました。ホンモノってそういう意味だったんですね。

私たちは、実際に役立つのをホンモノと呼んでいましたが、臨床心理学の世界では権威があること(海外の本場で学んできました、みたいな)がホンモノだったわけです。

クライアントからホンモノと言われることではなく、権威からお墨付きをもらうことが重視されます。そちらはお金で買えますので。

さらに権威が人を傷つけることに気づいた心理師も多くいて、そんなわけで、臨床心理の世界ではホンモノは悪者だったりするようです。「俺はホンモノになんかならないぞ」みたいな。もう、わけわかりません。

しかし、多くの心理師はその権威主義的なホンモノを目指しているように見えます。「人を助ける私」になりたい。そんな人が心理師を目指すわけですから。どこかで何かを習うことによって、特別な自分になりたいわけです。

その点では、コーチングの「クライアントの中に答えがある」という考えは、大学や留学先や「○○先生もそう言っていました」に答えがあるという考え方とは真逆ですね。

我-汝

ゲシュタルト療法の創始者パールズの「ゲシュタルトの祈り」という詩があります。

「助ける人」を放棄したような世界観が伝わってきます。これは、哲学者マルティン・ブーバーの我-汝(われ、なんじ)の関係だとも言われています。

私もこれに近い世界を生きています。

感謝されたり尊敬されるのは悪くはありません。しかし、それ以外のものがそれ以前にあるのです。もともと人から感謝されたり、尊敬されるために心理技術を学び始めたりわけではありません。自分が助かるために学び始め、それが人間的普遍性を通して「自分たちが助かる」へと発展し、その結果として支援関係が生まれました。

私たちの世界では「先生」と呼ぶことに意味はあっても「先生」と呼ばれることには意味はありません。

「先生」と呼び合う心理師業界は、私には不自然です。お作法なので従っていますが。

私はクライアントを「○○さん」だけではなく「あなた」と呼ぶことが多いです。「あなたの場合は」とかですね。これは「汝」です。(ちなみに、英語では「Thou(ざう)」)

そこにいるその人そのものに触れているような感覚です。名前もラベリングですから、名前すら付けるまえのあなたそのもののことを話しているのです。

面接記録を書くときは「あなた」とは書けないので、面接記録を書くときは我-汝ではなく、「我-それ」の関係になってます。面接記録を書くときと異なる、面接中にしか作り出せない関係です。

「あなたを助けるセラピスト」というのは、「我-それ」のセラピストとも言えるかもしれません。

「あなたが助かるセラピスト」は「我-汝」のセラピスト。

私が助けるのではなく、あなたが助かるのです。いや、助けますけどね。ヘルプするけど、レスキューしないのかな。

感謝されても嬉しくないとか、助けようとしないとかいうのではなく、人が助かることに興味が強いのです。

これは自分が「助けられたい」のか「助かりたい」のかとも関係しています。

私は助かりたかった。そして、人が助かってほしい。

助からない人や、助かりたくない人がいるのも眺めながら。「助かる」が起きるのはどんなときなのか、とても興味があります。「助け方」は二の次です。

人を助ける仕事に憧れて心理職になった多くの人たちとの違いです。

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