「占い」って、心理職の私からみると、どんなものでしょうか。
※「占い」といってもいろいろありますが、ここでは古来からある「卜占(ぼくせん)」、偶然に意味を施すようなものについてです。「あんた、このままでは不幸になる」のように、決めつけて、人の可能性を狭める類は除外します。
私や心理系の同業者にみかけるエンパス体質も、昔は占い師の性質だったとか言われます。「占いはカウンセリングみたいなもんだ」とか言う人もいますね。
広くは、自分に気づくための支援だったり、自分の望みをはっきりさせるプロセスだったり、首をはねられずに将軍様に助言するための手法だったり、そういう対話技法や療法ちっくな側面もあるかもしれませんが・・・。
しかし、周辺業務を除いて、まさに「占う」ことそのものって何だろうなと思ったりもするわけです。つまり、コンサルやカウンセリングにはあまりない特徴とでもいいますか。
ある占い師さんの、この記事「占いについて」を読んで、私なりに思ったことが。
地面の石をひっくり返すと、黒かったり、白かったり、模様があったりするわけです。なんであれ、さっきまで見えていなかったものが見えるんですね。視野が広がるわけです。で、それ自体は直接結論ではなくても、補助線みたいなものになるわけです。「思ってもなかった模様がそこにある」という現実が。それが新たな視野を広げてしまい、新たな可能性に心を開いてしまうという現象は思い当たります。
答えを知っている人が出すヒントとは違いますね。誰も答えを知らないのにヒントが出るわけです。正解を教えるというよりも、実は上手に悩めるようにしているのではないでしょうか。
「何かが見えること」ではなく、「何かが見えてなかった」という体験が重要なのではないかと思うのです。
よく当たる占い師よりも、「当たらぬも八卦」と言える占い師がすごいと思います。
精神分析の流れもくむKojunの心理カウンセリングなら、無意識を探索します。そこには当てっこゲームが多少あるのですが、まずは当たっているかどうかはどうでもいいんですね。
あり得ないことになっていたことが、あるかもしれないと心開くことに意味がある。それができずに「あり得ない」に囚われている状態をKojunは闇と呼びます。
だとすると、占いは虚をこなして闇を払う業なのかもしれません。
そういえば、心理セッションのとき、「今日は雨ですね」「はい、雨ですね」と言葉をかわすことが大きくプロセスを進めることがあります。