よくある勘違い
セルフコンパッションでは「自分に優しくする」と教えられています。これを「甘やかす(スポイルする)」と捉える人が殆どです。そして、多くは二つの反応にわかれます。
- 「自分を甘やかすとダメになる」と思っている人。セルフコンパッションの実践を嫌います。
- 「そうか、自分を甘やかそう」と思う人。痛みから目をそらして温泉旅行などに行きます。
自分を責めることの反対が、自分を甘やかすことだと思っている時点で、責める人と甘やかす人は似たようなものだと思います。私はこれを「責めるか甘やかすか」世界と呼びます。
体験の感覚が教えてくれたこと
セルフコンパッションの実践をしてみて、体験の感覚が教えてくれることを書いてみます。
レスポンシブルになること
自分を責めると言うことは、自分に対してなんと無責任なことでしょう。自分を責めることと、他人のせいにすることは似ています。誰かを悪者にすれば、恐ろしいお化け達が姿を消してくれるのです。
無責任とはレスポンス不能を宣言すること、自他を責めることをです。
自他を責めることをやめることは、レスポンシブルへの扉を開いてしまうのです。
セルフコンパッションはこれを突きつけてきます。
「自分を責める」などという甘えを解決法としないのです。
喩えるなら、「徹夜したけど納期に間に合いませんでした。辞表を出します」と言われても、「責任感あるなあ」とは思わないでしょう。「こうなる前に早めに相談すべきでした」という反省なら、ちょっとマシでしょう。「早めに相談しない僕は本当にダメですよね」と言われたら、無責任に感じるでしょう。
この例では、相談せずに徹夜すること、反省せずに自己否定することが、無責任なのです。
そこて、これらの甘えをあるがままに認めることから始めます。相談から逃げて徹夜してしまう自分を赦すことか。赦すためには、そんな自分がいることを認める必要があります。また、認めるためには赦す必要があります。
この実践は、人を責めたがる人たちの前では出来ません。説教の無い場が必要です。
ですが、納期に間に合わないという現実から目をそらすのがセルフコンパッションではないでしょう。
セルフコンパッションを実践すると、たとえば「この納期は無理があると思います」と言えるようになります。
セルフコンパッションを弱さを助長するものと誤解する人たちは、その勇気がない人たちだと思います。「そんなこと言えません」とか、「言っても無駄なんです」とか反射的に言い訳する人の方が勇気があるとは思えません。
痛みの麻痺をやめて見つめる
自分を否定すると、痛みが麻痺します。これは、緊急事態に逃げ出すときに活用できるかもしれません。麻酔や一時的な鎮痛剤のようなものかと思います。
自分を否定することが、謙虚な美徳になるのは、自信があるときだけでしょう。
自分を否定する、自分を責めることは、「その問題が本来は無いものであり、その問題が無ければ痛みもないのに」という空想世界への執着でしょう。その空想世界もあってよいですが、そるとは別に既にある痛みを見つめることも出来ます。
自分を責めること、自分を否定することをやめる練習を重ねると、麻痺できなくなり、心の痛みが自覚されてきます。たとえば胸の辺りが痛いとかです。世界そのものだったそれが、自分の一部に収まってきます。そして、「心の痛みがあってもやれること」等が見えてきます。
そうはいっても傷みは痛みです。他人から「セルフコンパッションしたから痛みは克服できただろ」と都合よく平気になることを強要されると、セルフコンパッションは崩壊します。
痛みの存在を認めると、痛みから自由になる。「痛みから自由になるべきだよね」と言われたらその痛みは恐ろしい化け物になる。
心の痛みは無視されることで化けてゆきます。
心の痛みを直視することは、楽なことではありません。
「自分を甘やかしたくない」と言っていた人たちの想像を遥かに超えて、この実践は苦痛に出遭います。自分に鞭打つよりも勇気が必要です。
実践法法
ここではMindful Self-compassionを参考に簡易的な実践方法を挙げます。詳しくはガイドブック等を参照。
- 1. 静な瞑想環境をつくる
- ストレスある事柄を思う
- 自分の中の痛みを見つける(身体感覚)
- それをなだめる(友人や子どもを励ますときのように声をかける、手を当てる、呼吸を吐く)
- 変化を感じる
上手くいかないときは無理しない。
