私は元ゲーム業界でゲームを企画開発していました。そして今、心理セラピストです。この二つの仕事には似ているところがあります。
それは、偶然の力を使うということです。
偶然の反対は作為です。開発側からみたゲームとは偶然を取り入れた作為のことです。
王様と占い師
参謀が王様に対して、「この戦争は撤退したほうがよいのではないでしょうか?」と進言すると首を切られる可能性があります。王様の闇が強いときほど、そのようなことが起こりやすくなります。
そこで当時の心理専門職である参謀は占い師を名乗りこのように言います。
「戦況について、くじ引き占いをしてみましょう。おやおや、”本当の勇気”という言葉が出ましたよ。王様、なにか心当たりはありませんか?」
「むむむぅ、貴様面白いことを言うではないか」
つまり、参謀が大事なことを暴くとアウトですが、偶然が大事なことを暴くのはセーフなのです。
そのために、偶然が本人に何かを気づかせるようにワークを作為的に組み立てます。作為と偶然のコラボレーション、これがゲームです。
自然によるオペラント条件付け
子供の忘れ物を減らすために罰を与えるというのは、なかなか上手くいかないかもしれません。反発が起きるか、抑圧(広義のトラウマ)を蓄積するかです。ですので、褒めるなのどの報酬系のメソッドが推奨されたりします。
つまり、よほどの場合以外はオペラント条件付けの「罰」方式はアウトです。
ところが、傘を忘れて雨に濡れた経験は、忘れ物をしないよう注意するという行動を健全に促す可能性があります。これは「罰」ではなく「苦い経験」。
その違いは、「罰」が作為的であるのに対して、「苦い体験」が自然現象であるという点です。
もちろん、自然現象も災害のように酷い場合はトラウマとなり得ますが、適度な自然現象は罰を超越します。
この「自然現象」と先述の「偶然」が似ていることに気づくでしょう。
つまり、偶然とは作為的にゲームに取り入れる自然現象のことなのです。
心理セラピーのゲームバランス
心理セラピーでは適度な挑戦を促します。促すといっても、ぐいぐい背中を押すわけではなく、ご本人がやってみたくなる挑戦の選択肢を提供しているわけです。
楽しめるような適度な難易度であるとか、選択肢を増やしてその人らしく振舞えて、その人らしい結果になるように調整することなどをゲーム業界では「ゲームバランス」と言います。
心理セラピストの役割は、クライアントに固有のゲームバランスを調整することとも言えます。Kojunはゲーム業界出身なので、このバランスにめちゃくちゃ敏感なのです。
また、生きづらさの解消は内なるゲームのルールを変えることでもあります。それは、甘くするか厳しくするかではなく、いかに楽しくするかです。
社会のルールに苦しめられた場合も、ご本人がメタゲームを開発して、ゲームマスターになってゆく過程ともとれます。Reゲームしているわけです。
心理セラピーにおける「あそび」
心理セラピーでは、「セラピストはクライアントの半歩後ろを歩くべし」などとよく言われます。クライアント中心療法というようなスタイルも同様です。それらは、セラピストが答えやプロセスをガチガチに決めてしまわないというような意味を含んでいるでしょう。
この、セラピストが答えを決めないとか、誘導しすぎないという加減は、ゲームがルールとプレーヤーだけでなく偶然を含むということに似ています。
セラピストが提供するのは、主にはゲームのルールであって、コンテンツではないということです。偶然がプレーヤーに役立つようなルールとかガイドとかを提供しています。
セラピストは変化を提供せず、選択が出来るように支援します。私はこれをクライアントに説明するとき、「セラピーの結果は、自分が選んだ通りになりますよ」と表現します。
そして、クライアントの選択はセラピストにとっては偶然です。
構成的エンカウンターなどのグループワークのファシリテーターも一種のゲームマスター(ゲーム進行役)です。
心理セラピーの技法や理論の教科書にはルールとプレーヤー(クライアント)から必然に起きると期待されることが書いてありますが、実際には偶然が含まれます。偶然は科学主義からは嫌われますが、おそらく必要なものでしょう。それは誤差以上の意味をもつものです。
それがないと、王様に参謀は首を切られますし、子供の忘れ物は反抗やトラウマに化けますし、心理セラピーでは葛藤が抑圧に敗北します。
作為的に自然を取りれる、この偶然というものは、科学主義や論理実証主義を突き崩すものであり、そのゆるさを許す態度は「あそび」とも呼ばれます。
Play your inner game with Kojun.