自分と向き合うことを、「感情を受け容れる」とか言いますね。セラピーで言うところの「解放」も、それを含みます。
「受け容れる」という言葉のは、分かりやすさを狙った言葉で、人によって様々なニュアンスを持ちます。
専門的には、より中立な表現で「感情を所有する」と言ったりします。
今回は、この感情の所有をみてみましょう。
中間管理職の課長が部下に対して怒鳴り散らしていたとします。「もっと真剣にやれーっ!!」と。
怒りが現われています。
課長さん、あなたは怒っているようですね。
「怒ってなんかいねーよ! こいつらが真剣じゃないから注意してんだ!」
部下たちが真剣ではないと、あなたは怒っているのですね。
「怒ってるとかそういうのじゃなくて、こいつらが真剣じゃないって言ってるんだ!」
これは、課長がご自身の「怒り」を所有していない状態です。
部下が真剣であるか、真剣でないかとは、別のことです。
どっちであれ、声を荒げていますね。
「声は・・・荒げたな。たしかに、俺は怒っているよ」
それを認めたまま、怒ってください。
「俺は、怒ってんだよっ!」
はい、「怒り」を所有しました。
いまどんな感じがしますか?
「なんつーか、俺、ピクピクしてるな。焦ってるのかも」
それは?
「それは…、あれだよ。このままだと、週明けの会議で部長へ報告するときヤバいなと」
不安ですか?
「不安だ。しかし、不安がってもしかたないだろ?」
不安がってください。不安を感じてください。
「まじかよ、おい。うーん、不安だなあ…、うーん、不安、たしかに。自分の中の声が、やべえやべえ、どうするどうすると言ってる感じ」
はい、「怒り」正体である、ご自身の「不安」を所有しました。セラピストに言われたから不安になったのではありません。もともとそれがあって、それ故に怒鳴り散らしていたのです。
不安を感じて、どうなりましたか?
「不安ではあるが、まあ、仕方ないなというか。いや、困ってはいるのだが、怒鳴ってもしょうがない感じはしてきた」
さて、真実レベルに感情の所有が達したとき、だいたい2通りのことが起こります。
1つは、「完了」。「不安だ」が成仏して、「不安だった」に変わります。このケースだと、週明けの会議への覚悟が決まるという現象になります。
もう1つは、不安への対処法を思いついたり、実行したりできるようになります。敵が見えたので、闘える(もしくは逃げられる)わけです。
「所有」すると、「部下への怒鳴り散らし」を手放すことができます。ですので、世には「手放しなさい」という教えが言われます。ですが、本当は、手放すことで解決するのではなく、所有した結果、手放せるのです。解決策は「手放す」ではなく、「所有する」です。
所有することなく、手放すと、「部下への怒鳴り散らし」の代わりに別の攻撃(他のこと、他に誰か、自分へ等)が発生します。わざわざ、攻撃相手を探し始めることもあります。