「無条件の愛」は無条件ではない

心の回復のために「無条件の愛」というものが必要だと言われます。自分に向けた場合は、(良い意味での)自己愛となりますね。

この言葉、理屈の世界をみているか、体験的な世界を見ているかが表れるので、面白いと思います。

心の回復に必要ないわゆる「無条件の愛」について、私の思うところを書いてみます。

自己犠牲という意味ではない

結果的に自己犠牲が伴うことはあるかもしれませんが、そのことと「無条件の愛」とは別のことと思ったほうがよいでしょう。「愛する」というのは、大切に思うとか、思いやるくらいの意味で考えましょう。

心の回復を目指す人にとって、このことは重要です。ハードルを上げてしまうと、無条件の愛をもらったり、あたえたり、という実践がとても難しくなります。

不必要にハードルを上げないほうがよいでしょう。

通りがかりの見知らぬ人が親切にしてくれた。それくらいの無条件の愛を受けとれるほうが、心の回復には断然有利です。

博愛という意味ではない

誰でも愛するという意味ではないと思います。「無条件なんだから、すべての人が対象になるはずだ」という理屈があるかもしれませんね。

たとえば、健全で理想的な母から子への愛は「無条件の愛」の典型でしょう。しかし、その母親は人類全員にその愛情を向けるわけではありません。無条件といっても、相手は選んでいるのです。自分が生んだとか、自分が育てているとか、その子であるというような条件がついています。

「無条件の」とうのは、「失敗しても」とか「自慢しやすい特徴がなくても」とか「親の期待と違う道に進んでも」とかいう意味です。

余計な条件がついていないという意味であって、なんの条件もあってはならないということでもなさそうです。

無償という意味ではない

セラピストは有料で無条件の愛を提供する!?

クライアントがセラピストから無条件の愛を受け取るということは、わりと基本的なプロセスとされています。

ですが、セッション代を払っているから無条件じゃないやんか、と悩むセラピストもいるようです。

たとえば、そのクライアントが親から「高学歴じゃないと愛さないぞ」という扱いを受けてきたことが心の問題のカギだったとします。その場合に必要なのは「親の期待と違う道を進んでも、大切な人間として扱われる」とうことであって、「無償でなにかしてもらう」ということではありません。

そういった扱いを総称して「無条件の愛」と呼んでいるわけです。言葉の前にある実態をつかむ必要があります。

セラピストからちょっとした無償のオマケをもらうことが、プロセスを後押しすることもありますが、それが全体になることはありません。

無償でちょっと相談している人よりも、代金を払っている人のほうがよい結果は出やすいです。それは、セラピストが出し惜しみしているわけではなくて、払わない人は受け取る力が弱いということと関係しています。

また、「無償でなければいけない」と考えている人の心には「愛や人生の価値は総量があって枯渇するもの」という信念がひそんでいるようです。

たくさんあるよ、たいしたことないけど

心理セラピストなんてやっていると、稀に「おい、お前はセラピストか。できるもんなら、病んでいる俺を癒してみろ。どこまでの愛があるか試してやる」なんていう人に絡まれることがあります。お断りすると、泣きそうになるんですが・・・

心が回復していないと、無条件の愛という言葉に過剰な期待をもち、その結果としてこの世には愛はないという世界を見てしまいます。心が回復してくると、あちこちに無条件の愛というのが発生しているのが見えてきます。

それは、愛に飢えた人が期待するような、たいしたものではないです。

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