ラベリングしたところで立ち往生
自分は愛着障害かもしれないと思う人の多くは、愛着障害の特徴リストなどを見て当てはまることが多いから、そして幼少期に思い当たる逆境体験があるからということで推定するようです。しかし、愛着不安定に対するセラピーというのは、地味で当たり前っぽいアプローチが多く、マニュアル化された手法というよりも、どんなセラピストなのかということが重要だと思います。特徴リストで「愛着障害だ」と判断したとしても、病名的ラベルからセラピー手法名を辞書引きするみたいなカウンセリング選びは難しいのではないでしょうか? 症状→病名/ラベル→セラピー手法のようにブラックボックス化せずに、その意味、内容を捉える必要があるように思います。
子どもの支援の場合
このサイトは大人の当事者を読者として想定していますが、参考までに子ども支援についての話をうかがって思っていることも書いてみます。
また、一方で、子どもを扱う施設や学校の職員さんたちから「愛着障害の子がいる」という表現を聞くことが多くあり、違和感を感じています。どうやら、家庭環境に原因がありそうな、なにかしら度が過ぎて普通ではない子のことを「愛着障害」と呼んでいるようなのです。
例えば困っていることがあって、それが大人に届かないとき、かまってほしくてイタズラをするなんていうのは、愛着障害でなくても起きることでしょう。問題行動=愛着障害ではありません。むしろ、愛着障害では、苦しくても平気そうにしているとか、大人が気に入るような馴れ馴れしさということもあり、職員さんや大人を困らせないことが多いのではないでしょうか。職員さんのキャパを超えたら愛着障害、みたいなラベリングには違和感があります。原因が内因的なら発達障害で、家庭環境なら発達障害、みたいなラベリングの癖が発生しているのかもしれません。
人前で喋れない子がいて、「場面緘黙の子」と見立てるのであれば違和感はありません。それはなんでそうなったかはともかく、目に見えて実際に起きている、結果的に起きている現象を表すに近い言葉ですから。しかし愛着障害というのは、どちらかというと内側で起きていることを表す言葉です。
※ただし、DSM-5の診断基準には、子どもの愛着障害に相当する疾患名が観察可能な基準で定義されていますが、施設や学校での事例で「愛着障害の子」と言われるとき、それらの診断基準とも掛け離れていることが多いです。
愛着障害と呼ぶことは、支援の指針を決めることと一体化しているのではないでしょうか。
これは大人の(愛着障害かもしれない)当事者が自身を扱うときも、同様に気をつけたいところかと思います。大人の当事者の場合で言えば、自分を愛着障害だろうと仮定することは、セラピー等の支援探しの方向性を決めることということになります。逆に言えば、愛着障害は主訴(困り事)ではないということ。「自分は愛着障害で困っている」(愛着障害が主訴になっている)とか、それでいて後述のようなセラピーではないセラピーを試しているという人は多いですが、あまりお勧めできません。
そういう意味では「愛着障害」なのかよりも「愛着アプローチ」、「容器モデル」、「安心基地」が役立つかの方が適切なのかもしれません。
心理セラピストのラベリング営業もあった
余談ですが、実は昔、セラピストが「あなた愛着障害ですよ」とラベリングする営業方法がありました。悩みに名前をつけると集客できるのです。最近でも言葉を変えて同じようなことが行われているかもしれません。啓蒙という意味もあるので、全て悪とも言えませんが、ご自身の悩みがラベリングによって解決するのかは常に気をつけておくことをお勧めします。
Kojunの解決志向のラベリング
で、まじめな話に戻りますと、Kojunは「愛着を意識したセラピーが役に立ちそうな人」を愛着障害(愛着不安定)と呼んでいます。つまり、解決へのアプローチ(仮説、提案)が見つかった/見つかりそうなときのみ、愛着という言葉を使うわけです。
ですから、「愛着障害の子がいて、どうすればいいか分からない」なんていうのは違和感があるのです。どうすればいいか分からないのに、なんで愛着という言葉を使うのかと。それはその本人の困り事の名前ではなく、支援者の困り事に名前をつけてませんか、と。
解決志向というのは、解決を急ぐ前のめりの姿勢のことではなくて、「とりあえずな原因さがし」はしなくて、「解決のための原因仮定」しかしないということです。解決方法を示唆しないラベリングはしません。
心理セラピストを選ぶヒント1
では、その「愛着を意識したセラピー」とはなんなのかというと、簡単にいうと愛情の器を満たしてゆくようなアプローチ、安心感を育てるアプローチなどのことです。ですから、そのようなアプローチがよさそうだなと思ったときに、愛着障害(愛着不安定)のラベルをつけるのです。本人にどう言うかはともかくとして。
ですから、心理セラピスト等を選ぶときに、ほどよく温かいものが流れ込んでくるような人を選ぶとよさそうです。
ただ、依存させる人、憐れみを見せる人、巻き込まれそうな人はよくないです。残念ながら、愛着不安定の当事者は、そのような不適切な人と、適切な人の違いを見分けるのが苦手だったりします。最初は間違えながら、だんだんと選ぶのが上達するというのが克服の道かもしれません。「人を選ぶのが下手だったなあ」と振り返れるようになっていれば、峠は超えているのかもしれません。愛着不安定の人は「ものすごく満たしてくれる」人を探す習性があるので、最初は「ほどよく満たしてくれる人」が目に入るところからかもしれません。
心理セラピストを選ぶヒント2
「愛着を意識したセラピーが役立ちそう」の意味について、別の言い方をすると、自信もてるように励ますとか、認知の修正とか、ソーシャルスキル・トレーニングとかが役に立たないかもしれないという意味でもあります。
エリク・エリクソンの発達段階によると、自信をつけるのは児童期(小学生くらいのイメージ)です。そこでは、「出来る、出来る」とか「すごいね、できたね」みたいな励ます、褒めるみたいなカウンセリングが効果があります。ですが、愛着不安定の人の場合、あまり効果がなかったり、「褒められても不安になる」みたいなことも起こります。「出来たときだけ褒められる。次回は褒められないかも」みたいな感じでしょうか。
愛着不安定の人に必要なのは、何も出来なくても守ってもらえる、存在を肯定してもえるという、基本的安心感です。成功体験よりも、失敗しても死なない/消されないという体験。これはエリク・エリクソンの発達段階では、乳児期です。ここで躓いている人を小学校的セラピーに招待しても上手くいかないのです。赤ちゃんに「出来る出来る」と励ますのは、どちらかというと愛着障害が作られたプロセスに近いかもしれません。なので、愛着障害の初心者は「出来る出来る」セミナーに参加してしまったりします。
空中ブランコの練習をするときに、最初は落ちる練習をします。落ちても死なない、怪我しない、叱られないという体験を十分に積んでから、飛び移る練習をします。「さあ、君ならできる。飛んでごらん」と言われて足がすくむ人には、落ちる練習から。それが「この人は愛着不安定かな」という見立てです。
では、どのような心理セラピストを選ぶのがよいかというと心理的なセーフネットになる人です。具体的には、失敗を報告すると安心できる相手となります。
そして、「自分は愛着障害なのか?」よりも、これらの話が自分に役立ちそうかのほうが大事なわけです。便利な表現があります。「私は愛着障害っぽいところがあるようにも思います」くらいでいかがでしょうか。