解決について考えるか、問題について考えるか。目標か課題か、願いか不満か、目的か原因か。
心理カウンセリングなどにおいて、原因とか課題とかについて考えることはあります。心にある克服が容易でない問題のことを、私も心理課題と呼んだりすることがあります。
なぜなら解決に役立つことがあるからです。
解決志向の本質は解決像
解決志向は「問題ではなく解決に目を向ける」、すなわち問題を扱わないという説明がよくされますが、これには誤解があるように思います。
「問題を扱ってはいけない」というと問題に目を向けるのが辛い人たちにウケがよいですが、本質はそこではないと思います。
「解決に目を向ける」というのが解決志向であって、それは「問題から目を逸らす」とうことではないでしょう。ですから、問題を扱うことが解決に役立つ場合は、問題を扱ってもよいわけです。
「解決に目を向ける」というのは、「なにが解決であるか」を考えるということでもあります。
「問題を見るのではなく」と言われるのは、問題を見ているとき、解決がなんであるかすら分かっていないことが多いという戒めです。
どうなることが解決なのか、その具体的なイメージを解決像と言います。
問題が見えるということが、解決像が見えるということと表裏一体である場合もあります。
問題から目を逸らすことは解決志向の本質ではない
「解決像をみつけましょう」が「問題を扱ってはいけない」にすり替わることこそが、解決志向ではなくて問題志向(犯人捜しの罠)でしょう。
「問題を扱うことは悪いことだ」と問題を特定して、それを除去することに拘っているわけです。「解決とは問題を特定して取り除くことだ」という問題志向です。
解決志向なら、解決にならない問題探しはしないし、解決になる問題探しはします。問題探しの除去が目的ではないからです。
とはいえ、問題を見ていると解決が見えなくなる
ただし、解決のための問題探しだと思っていても、いつのまにか問題志向になってしまうことがあります。
そのことが「問題を扱ってはいけない」という教えの本来の意味でしょう。
ですから、問題を扱うことのリスク、すなわち問題志向の罠について知っておくことは有用でしょう。
たとえば、自分の悩みの原因は幼少体験によって作られた人生脚本だと納得したとしましょう。
1つ目の罠
まず、重要なのは幼少体験(過去)が原因なのではなくて、それによってつくられた人生脚本(今なお)が原因と捉える必要があります。過去を原因だと捉えてしまうと、原因への変化はあり得ないものとなってしまいます。これが一つ目の原因論の罠でしょう。
2つ目の罠
もう一つの罠は固執というか目的化です。もし、その人生脚本が原因だという説が役に立たないのであれば、それは保留しておく必要があります。しかし、それを自分の人生を呪うためのツールとして活用してしまうことがあります。これも原因論の罠でしょう。
これらの罠を避けるスキルがない場合は、とにかく原因を扱うことを避けるという方針も応急処置になるかもしれません。
3つ目の罠
そして、もう一つの罠が、原因を安易に取り除こうとして失敗するということです。
人生脚本でいえば、安易に「書き換えればいいんだ」という発想です。
たとえば、過去の見捨てられ体験を思い出して、「自分は見捨てられる」という脚本を持っていると気づき、「見捨てられない」とか「見捨てられたけど、出会いがあった」とかいうポジティブな脚本を作ってアファメーションするみたいな。
意識的な書き換えが通用するかどうかは、その心理的原因の深さによります。幼少期に得たもので、人生に大きく影響しているようなものは、深いものである可能性があります。それを意識的な書き換えなんてもので修正しようとすると、努力逆転の法則(いわゆる逆効果)が発生したりします。
そんなわけで、「あーやっぱり原因を扱っちゃいけなんだ」と原因扱わない主義がウケることになるのです。でも、それも無理な書き換えと本質的には同じです。努力逆転の法則は、努力逆転の罠から逃れるため過剰な努力にも当てはまるわけです。
しかし、実は努力逆転は原因の扱いに失敗しているに過ぎません。
問題や原因を潰すために問題探しをしない
問題や原因を安易に否定したり、取り除こうとするから上手くいかないのでしょう。
原因を愛することができる者だけが、原因論の罠にはまらずに原因を変化させることができます。
問題を見ていると、解決像が見えなくなることはよくあります。しかし、問題を見ていることが問題なのではなくて、解決像がないことが問題なのです。
解決像をもって悩みに向き合いましょう。原因や問題は必要に応じて扱います。