置き去りにされしものを探して:理解されにくい「生き辛さ」の旅

「生き辛さ」は理解されにくい

トラウマやACEsなどに苦しむ私のクライアントの多くが持つ「生き辛さ」というものは、他人に理解されることが難しいようです。

多くのクライアントが心理セラピーの後半で「わかってもらえなかった」と言います。

誰かに相談したり、苦しみを訴えると誤解されてしまう、悪者にされてしまうという世界を体験してきた人たちも多いです。

そして、私たち自身が自分の感情にすら正確に言葉を与えることが難しくなってゆけば、罪悪感や自己否定が宿ることもあります。

そんな中で、自己肯定を小さな炎を守るようにして隠し持って生き延びてきた方々がクライアントです。

「生き辛さ」と「苦労」の違い

「生き辛さ」は「苦労」とは異なります。

「生き辛さ」を語ると「苦労」と比較されるのはよくある誤解です。たとえば、「生き辛い」と語っても、「誰だって大変なことはあるよ」と返されてしまいます。そして、「苦労や困難がない人生を求めているんだな」と思われてしまうのです。

そのような説教や応援によって吹き消されないように、小さな蝋燭の炎を隠し持つように密かに守って生きてきました。それが「誰もわかってくれなかった」だと思います。

私たちが抱える「生き辛い」という問題は、「苦労や困難がある」というのとは違うのです。どちらかというと、その苦労や困難への対処が困難であることといった感じかもしれません。つまり、苦労が「ある」ことよりも、対処でき「ない」ことが問題なのです。

「雨が降っているから困っている」よりは「傘をさせないから困っている」に近いかもしれません。

「生き辛さ」の本質

「苦労に対処できない」というのは「心が弱い」ということとも、ちょっと違います。メンタルヘルスで使われるストレス理論の「脆弱性」という言葉に、私はショックを受けます。

「苦労に対処できない」というのは、スキルのこととも違います。コーピング技術(ストレス対処法)とかソーシャルスキルトレーニングなど解決するようなものではないのです。そのようなことで解決するくらいなら、とっくに解決しています。

それは技術や能力が足りないのではなくて、禁じられている感じに近いです。

たとえば「私が幸せになったら、亡くなった家族に申し訳ない」とか「私が生まれてきたせいで、母は父と別れられなかった」とか「私が自由になると親が悲しむ」とかは、弱さやスキル不足とは次元の異なる問題です。

そして、その対処できなさを、心の弱さや、訓練能力の不足であると他人から思われることが、生き辛さを「生き辛さ」にしているようにも思います。

世間と折り合いをつけるにも、支援を受けるにも、どこかしら弱者、怠け者、悪者という役を引き受ける必要があります。世間や支援者にそんなつもりがななくても、実際の扱いとして、それは当事者に降りかかっています。生きるということは、世間と折り合いをつける必要がありますが、折り合いをつければ自分が自分ではなくなってゆきます。

生きてゆくために自分の存在が犠牲になる、それが「生き辛さ」、存在することの難しさではないでしょうか。

苦労や困難があるのではなくて、「生きるのが難しい」のです。

「苦しみからの脱出」ではなく、「幸せの探求」

心理セラピーのご要望で「〇〇症状をなくしたい」「〇〇から逃れたい」という表現は意外に少ないです。

心理カウンセリングの段階では、そのような表現であったとしても、心理セラピーを申込むときは、「〇〇なりたい」「〇〇がほしい」というような表現が意外と多いです。

心理セラピーでやることは、なにかを手に入れることです。

「苦しみからの脱出」というテーマだけでは出口がみつからないとき、「自分の幸せとは何か」、「どうありたいか」という問いへの探求が始まります。

身体症状に喩えるなら「麻酔で痛みをわからなくしてほしい」という要望は心理セラピーに相当するものではないということです。

私たちが求めているのは、麻酔で痛みをなくすことではなく、失われた幸せを見つける旅なのです。

もちろん、「苦しみがなくなってほしい」という気持ちもあると思います。しかし、「苦しみを忘れたい」ではないんですね。

理解されることの喜び

私たちの望みは、ただ苦しみから解放されることだけではありません。他の人たちから「苦労は誰にでもある」と言われるのではなく、私たちの独特な体験世界や感情を理解してもらうことで癒されます。その理解が得られたとき、私たちは安心感と満足感を得るのです。

「誰にだって苦労や困難はあるよ。だからあんたも我慢しなよ」と言われて、我慢してもその安心や満足感は得られません。まだそれが、幸せになるための我慢になってないからです。

私がクライアントに「(心の問題が解決しても)傷つかなくなったりはしないですよ」「人生から苦しみがなくなったりはしないでしょう」と言うことがあります。クライアントは落胆したりはしません。「やっと話が伝わった」というようにホッとした表情をされます。

「ああ、傷ついてもいいんだ」「泣いてもいいんだ」「苦しんだとしても、笑ってもいいんだ」と。そして、困難に対処することの禁止が解かれてゆくようです。

置き去りにされしものを探しに

クライアントは失われたものを探しに来ているような印象でもあります。それは未だ残っていて、救済されるのを待っています。ですから、私は「置き去りにされしもの(the left behind)」と見立てます。

「生き辛さ」とは、苦労や困難を乗り越えるための力不足ではなく、理解されることを失ったことへの悲しみや無力感です。私たちはそれを理解してもらい、自分自身の中にある置き去りにされしものを探しに行きます。その旅が始まり、その先に私たちは本当の幸せを見つけるのでしょう。

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