「虐待の連鎖」をデータでみるか事例でみるか

「虐待が連鎖しないことは研究によって明らかになっています」などと言われますが、「虐待の連鎖」を安易に否定するのもどうかと思います。

なんのための議論なのか

多くの人は「親のせいなのか?」という関心があるようですが、私たちセラピストやクライアントが興味があるのは「虐待をやめるための心理セラピーにおいて、自身が虐待を受けたことについて扱うことは役に立つか?」です。そして、臨床実感としては、役に立っています。

極端な話、虐待をやめることができれば、非虐待が本当の原因なのかはあまり重要でないと思います。そこで「連鎖しない」と言いきってしまうよりは、連鎖という概念が思い当たることで助かる人がいればよいのではないかとも思います。

連鎖の結果としての虐待

かつて「虐待の連鎖はモデリング学習(親からされたことを真似する)によって起きる」と言われていたことがありますが、それは私の実感と異なります。躾と勘違いしているという事態はなくはないですが。どちらかというと、虐待を健全ではないと知りながらも止められないと苦しむ人たちが連鎖の本質かと思います。

そこで起きているのは、モデリング学習(親の真似)ではなく、虐待を受けたことにより愛着不安定、愛情への恐怖などの心の問題を背負い、それが次世代への虐待を引き起こしているというケースが多くあるように思います。

 親が受けた虐待 → 親の愛着不安定など → 子への虐待

虐待がそのままコピーされているというよりは、間接的に同じようなことが起きているということかもしれません。「大切にされなかったから、大切にする感覚が分からない」というのも親の真似をしているわけではない(「親の真似をやめます」というテーマ設定での心理セラピーがうまくいきそうにないという意味)と思います。

「虐待の連鎖」というとき、どんな現象のことを言っているのかは曖昧です。

実は本質は「虐待の連鎖」ではなくて「愛着不安定」の連鎖なのかもしれないのです。ただ、相談者の主訴(解決したいこと)が「愛着障害を治すこと」ではなくて「虐待をやめること」であることは、目的設定として健全ですが。

もし、愛着不安定の連鎖が虐待の連鎖として現れるケースがあるということであれば、統計の話ではなくてケースの話です。「この虐待は連鎖しますよ」と予測することと「このケースで起きているのは虐待の連鎖かもしれませんね」と見立てることは別のことです。

虐待検挙件数は虐待の件数ではない

研究データというのは、「虐待を受けたかどうか」と「虐待で検挙されたか」の2×2マトリックスの件数から比率を比べることで相関があるかを判断したりします。そのような研究では検挙されるほどの事態になっていないケース(おそらくそちらが多い)についてはわかりません。また、逆に「親が虐待で検挙されたか」と「虐待をしているか」で比べると結果は同じでしょうか? というように、因果関係を語るにはデータのとり方がちょっとあやしい研究もあります。

連鎖を断ち切っている人たちがいる

深刻な虐待になる前に、虐待の連鎖を克服している人たちがいます。それらはもちろん検挙件数にはなりません。データとして相関がみられないのは、もしかしたら「虐待は連鎖するけど、虐待の連鎖を努力によって断ち切っている人たちが多い」ということかもしれないわけです。

医療の進歩によって肺炎で死亡する人はいなくなりました。だからといって「肺炎で人は死亡しない。命に関わる病気ではない」と言えるでしょうか?

つまり、研究データには「虐待の要因が連鎖したけど、虐待をやめた人、虐待を予防した人」の数は無視されているわけです。当事者の意志であるとか、当事者の克服力というものに関心のない、またはそれらを知らないデータの取り方のようにも見えます。

私は虐待の連鎖を断ち切る人たちを見てきました。そのような人たちの努力によって、多くの虐待が防がれているだろうと思うのです。

データに相関がないから「連鎖しない」と結論することは、克服の現場で見る世界とは異なるのかもしれません。

私たちが「虐待が連鎖することがある」という話をするとき、それを断ち切る、縮小させることができるものとして話しています。

データは体験ではない

そもそもデータによって連鎖を相関の有無として語ることは、当事者の体験について無視された側面です。当事者が虐待してしまうことに悩み、それを克服しようとしたときに被虐待体験が立ちはだかると感じたとき、虐待されたのに虐待してしまう自分に気づき、それと向き合う中で、その人がそれを連鎖と呼び(統計ではなく、自分の体験の中にある連鎖とでもいうような側面を捉え)、連鎖を断ち切るという物語を体験することは実際に起きています。そして、そのような展開の共通骨格を物語レパートリーとして当事者コミュニティが持つことには一定の価値、というか成果があるように思います。

少なくとも私のクライアントで「親からの連鎖だから私は克服しない」などと言う人はいませんでした。連鎖だと捉えたことで、自分が何をすべきを知った人たちはいます。それを統計データで否定する必要があるでしょうか。誰のための心理学なのかです。

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