ゲシュタルト療法とかマインドフルネスで「いまここ」って言葉がよく使われます。感情焦点化や身体への気づきのアプローチなどでも同じです。
「いまここにいてください」って言われてもねえ。ちゃんとここに来てるじゃないですか。
「いまここを感じましょう」って言われてもねえ。いまここーって唱えるんですか?
「いまここ」じゃない状態の例を挙げましょう。
「心臓の鼓動を感じてください。どれくらいの速さで鼓動していますか?」
「健康診断で不整脈があるって何度か言われたことがあります」
「あなたは今どこにいますか?」
「いつも大抵は家か職場にいますね」
このような場合、「いまここ」に意識が向いていないのがよくわかりますよね。
では、もうちょっとリアルな例を挙げます。
人間関係の悩みの心理セラピーの場合です。
「その苦手な人が目の前にいると想像してください。どんな感じがしますか?」
「その人はいつもズルいんです。ウソの噂を流したりするんです」
罪悪感についての場合です。
「その、失敗して自分が許せなかったときのことを思い出して、感じてみてください」
「実は他の人も失敗しているんです。なのになんで自分だけこんなに苦しむんだろうかって」
これらは、その場面、あるいは思い出している今この瞬間の体験を観察することができず、あれこれと考えている状態です。
では、「いまここ」を体験している場合の例を挙げてみましょう。
「心臓の鼓動を感じてください。どれくらいの速さで鼓動していますか?」
「トック、トック、トック・・・これくらいの速さです」
「あなたは今どこにいますか?」
「カウンセリングの部屋の中です。椅子の上に座っています。」
「その苦手な人が目の前にいると想像してください。どんな感じがしますか?」
「背中が後ずさりしようとしている感じ。喉が絞まる感じもします」
「その、失敗して自分が許せなかったときのことを思い出して、感じてみてください」
「なんだかオェッツって吐き出そうとしています」
で、それらを十分に感じた後で、意味づけとかしてもらう場合もあります。しかし、この体験をせずに、意味づけしようとしがちです。本を開かずに読んでいる状態です。
「棚の在庫を数えてください」
「20個あるはずです」
みたいなのも、似ていますね。普段は棚卸しせずに、在庫を計算によって推定していますので、その癖が出るわけです。
あるいは、「目を開けてください」というのとも似ている気がしませんか。仏教用語の「開眼」という言葉も、関係あるかもしれません。
「いまここ」を感じてくださいって、わかりにくいですよね。未来や過去のことを考えてはいけないみたいに思っている人もいます。
未来のことを考えても、過去のことを考えても、「どんな感じがしますか?」に「胸が締め付けられます」と答えることが出来たならば「いまここ」体験です。
未来、過去のことを考えていなくても、「私は○○障害だから・・・」とか(この場合は「理由」)を語っている場合は、「いまここ」体験ではありません。それは体験ではなくて、データベース験です。