トラウマを治すのではなくトラウマを癒す

トラウマに限らずですが、個人の心理的な問題の解決支援には、いくつかの層があるように思います。それぞれについて書いてみます。

あなたが必要とする支援を探すヒントになるかもしれません。

報酬と罰で人を変えようとする

これは叱る、説教するというアプローチです。家族が電灯を消さないことについて、叱って改めさせるというような場合です。あるいは、勉強しないと(または働かないと)生活ができないぞと脅すことも含まれます。

対象者が簡単に変化できる場合は有効でしょう。人は痛みを恐れて行動を変えます。

しかし、その変化の達成が簡単ではない、別の痛みや恐怖をともなう場合などはうまくいきません。

たとえば、学習指導では意図せずかもしれませんが、高得点を取ると褒めて、低得点を取ると恥をかかせるということがなされてしまいます。そうすることで低得点の生徒はどうなるかというと、高得点をとるようになるのではなくて、勉強自体を避けるようになるとか、勉強に価値をおかなくなるという方法で痛みを避けようとします。

報酬のみで人を変えようとする

そこで、ぼちぼち耳にするのは、罰を使わずに、報酬のみを使うというアプローチです。褒めて育てるってやつですね。

しかし、対象者になんらなのブレーキ(トラウマ、心理的条件付けなど)がある場合では、褒めても、ご褒美をちらつかせても行動は変わりません。

随伴性の消去によって人を変えようとする

そこで、ブレーキを外そうというアプローチが登場します。これは行動療法とか暴露法とか、ちょっと専門的になってきます。

犬にベル音と床からの電気ショックを同時に与える(随伴性を刷り込む)と、ベル音を聞いただけで飛び跳ねるようになります。これを治すには、「飛び跳ねたら電気ショックを与える」という逆の罰では上手くいかないことが実験で知られています。逆の罰でも、報酬でもなくて、「ベル音が鳴っても電気ショックがこない」という体験を繰り返し与える(これを随伴性の消去という)ことで、飛び跳ねなくなります。

たとえば、不登校の子供が「学校に行くと嫌なことが起きる」と思い込んでいる場合、無理やり登校させて「学校に行っても嫌なことが起きない」という体験を繰り返すと不登校が治るという考え方です。これは30年くらい前には、実際に行われていました。1ただし、全ての不登校に対しては上手くいかないことは指導している教授も知っていたようです。

しかし、多くの人たちがそのような心理支援を拒否しています。

随伴性の消去が的外れなケース

たとえば、不登校の本当の理由が虐めだったとしたらどうでしょうか。当事者は随伴性の消去がされたことを容易に信じるわけにはいきません。安易に「ほらね、大丈夫じゃん」と言われるほど、それが表面的な随伴性消去であることに気づいてしまいます。

Kojunのところには、そのようなアプローチを拒否した人たちがきます。それらのクライアントから聞いた「恐怖」は、動物実験の電気ショックとは根本的に異なることに気づきます。

動物実験の電気ショックは実験者が与えたものだということです。ベル音と電気ショックという、本来は関係のないものを無理やり結び付けたニセの随伴性です。

それに対して、学校という場と虐めは実際に関係があります。つまり、それはニセではなく真の随伴性なのです。

暴力被害女性が男性がもつ恐怖も、真の随伴性です。腕力や立場を使って暴力を行う男性がいるということは、妄想ではなくて事実なのです。むしろ、男性と密室で二人きりになることが平気な人たちのほうが事実誤認しているのです。

タイタニック号の船底に穴があいていて、水が流れ込んでいるのを見たものはパニックになります。ですが、大多数の乗客はそれを見ていないので、呑気に社交ダンスなんかしていて、パニックになっている人を落ち着かせようとします。

トラウマを治すとは、多くの場合、そのようなことになっているようです。

丁寧に言えば、トラウマ解消における随伴性消去は、「過去の記憶に触れること」が危険ではないことを体験するという形で成立はすると思います。「記憶への馴化」「記憶への暴露」というような心理セラピーは効果があることが研究によって指示されています。

人を変えることを目的としない

これはトラウマの場合に特に必要になるように思います。

Kojunのセラピーでも消去できる随伴性は消去しますが、そこはメインではありません。

そのトラウマの訴えを受け取ること、恐怖があることを許すこと、パニックになることを許すこと。そしてはじめて、トラウマを扱えるようになる。それからトラウマの役割を終わらせてゆきます。

ある意味では、社会復帰させるためにトラウマを治すなんてことこそ異常だと思います。社会や加害者の方に問題があるわけです。その問題を本気で扱わずに、被害者の問題として治そうとするわけですから、的外れになるのだと思います。

そのような場合には、対象者を変えなくても対象者は守られるという体験がトラウマを解消してゆく場合があります。

人を変えることを目的としないとも表現できるかもしれません。

また、「記憶への暴露」というアプローチと両軸となるものとして、「人薬(ひとぐすり)」というアプローチがあるように思います。

すなわち、「こわくないよ」のセラピーか、「こわくてもいいよ」のセラピーかの違いです。

この人薬アプローチは、味方がいるよ、理解者がいるよってことだと思います。

Kojunはたいていのトラウマは正常反応だと思っています。

ここで必要な理解者というのは、「この人はPTSDという疾患にかかっている」とラベリングすることではなく、その人がそうならざるを得なかったことを理解することだと思います。

つまり、広義PTSDになったということは、自然のことであり、普通のことであるという理解です。これが福祉・教育現場の支援者から相談されたときに、よく必要と感じることです。

それは理不尽な圧倒的な力によって、別の自分にならざるを得ないという体験を知っているか、想像できるかということかと思います。

支援対象者(トラウマになった人)がネガティブなこと(たとえば、「私はどうなってもいい」とか「私は汚れている」など)を言ったときに、「そんなことはないよ」と本気で言うのか、他の言葉を言うのか、それは理不尽な圧倒的な力による別の自分にならざるを得ない体験がどんなものかを知っていることでしか決まらないと思います。

これが「専門知識として理解している」ということと、「人薬になる理解」との違いだと思います。

「あなたは悪くないよ」という台詞は暗記できますが、そうではなくてクライアントを尊敬して信頼できるかだと思います。

とはいえ、「人を変えることを目的としない」というのも次のようなバランス感覚の上にあるのかもしれません。

「治す」タイプの治療者は、(中略)クライアントの本来的な生き方を歪ませようとしていないかを常に反省する必要がある。「治る」ことを強調する人は、(中略)治療者の責任や能力という点で厳しさに欠けるところがないかを反省すべきである。

河合隼雄『心理療法序説 』p.21

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