心理療法の分野では標準化されたものがよいという価値観もあります。
標準化というのはマニュアル化されていて、誰がやっても同じ結果が期待できるるというような意味です。
※工業やIT分野では異なる意味で「標準化」という言葉が使われていて、興味深いです。(参考:心理支援業界の「標準化」概念はちょっと旧い)
でもそれは、研究者や行政にとってよいってことですね。
標準化できないものは、職人芸みたいなものだから価値がないというわけです。
アンコモンなセラピー
昔のセラピストでミルトン・エリクソンはという人がいて、ケースバイケースであの手この手で常識破りのセラピーをしていたそうです。アンコモンセラピーと呼ばれたりします。
そういうのも標準化できないですよね。基本方針みたいなのはあるけど、「臨機応変になんでもあり」っていう方針ですからね。
Kojunもけっこうアンコモンかもしれません。
といっても我流というわけでもなく、「技法・アプローチ」に書いているように、一応の技法というのはもっています。複数ですが師匠もいます。
Kojunの例
「水の泡になったんですね」
たとえば、あるグループセッションで「苦手なことも頑張って、やっと成果が出て来ていたのに、あることが起きて、すべて水の泡になってしまった」と語られたとき、私は「水の泡という何かになったんですね。それは全く立派ではない何かだけど、その何かになったんですね」と言いました。そして、グループの中である癒しのプロセスが起こりました。
こういうのは、メモして真似してもろくなことにならないと思います。受け売りでは効果はないのです。
正直に「あるセラピストはこんなふうに言ったそうです」と言うならマシかもしれません。
本当のことを言うと、カウンセリング技術として「聞きながら頷く」なんてのも、共感している人の真似にすぎないので、ろくなことないんですけどね。
被虐待の体験者に「ありがとう」と言うこともある
また、別のセッションでは、クライアントは家庭内で暴力を受けるなどしながら、実は家族システムの中である役割を担っていたことに気づきました。そこで私は「ありがとう」という言葉を言ったのでした。私はその家族メンバーではないので、私がお礼を言うのは奇妙です。
※ちなみに、心理セラピーではいわゆる被虐待体験の話はよくでてきますが、心理セラピーの中での会話に「虐待」という言葉が使われることは実はあまりないです。「虐待」というラベルを貼るのではなく、具体的なことが描写されます。ここでは具体的なケースに触れずに抽象化するために「虐待」という言葉を使います。
これも、メモして真似しても、ろくなことにはならないでしょう。
この言葉は、ある生き方をしていないと意味を持たないからです。そしてそのことがクラアントに伝わっている必要があります。
標準化されていない要素はどこからくるのか
標準化を至上とする立場の意見は、標準化されていない要素は、すべてランダムな誤差や、セラピストの思い込みなどの有害なものとみなしているのでしょう。しかし、例に見たように、標準化されない要素(マニュエルに書けないこと、あえてマニュエルに反すること)は有害どころか、本質であることもあります。
水の泡を愛し、被虐待者に感謝するというのは、自分でも不思議に思います。
それはどこから来るのか?
たとえば罪悪感がその人を苦しめているらしいと感じ取ったとします。そこで「罪悪感を感じなくてもいいよ」と声をかけてもセラピーにはならないのです。セラピストは「罪悪感を感じなくていい」というセリフを言うのではなくて、「罪悪感を感じなくていい」ということを証明してみせなければなりません。言葉を使ったセラピーであっても、言葉の通りに人が変わることはありません。言葉の通りに代わるのであれば、セラピーに申し込まずに啓発本でも読めば済むことです。
証明するためには何でもしますよというのが、アンコモンセラピーなんでしょう。
そして証明するには、それが真実である必要があります。
なのでセラピストは自分の人生において、真実をみたことがある必要があると思います。