人間の多様性(マイノリティからダイバーシティへ)

人間の多様性についても、ブログ記事に書いてゆこうかなと思っています。

以前は、マイノリティ(少数派)として扱われていた分野が、ダイバーシティ(多様性)と捉えられるようになってきました。

たとえば、身体障害では、テクノロジーやユニバーサルデザインによって、以前は障害だったものが今後は障害ではなくなってゆくというものがあります。例えば声が出ない人がいたとして、音声合成装置が普及して、社会がそれに慣れると、それは障害ではなくなってくる。声が出せるという機能的なことを言っているのではありません。「あの人は障がい者だから」というような印象や、関係性への影響などがなくなってゆくというということです。一方で、研究が進めば、健常者とされてきた殆どの人たちにもある種の障害のようなものがあることがわかってきます。健常者なんていないのかもしれない、ということになってきます。

コミュ障ついても、コミュ障という言葉が多用される社会って何なんだろうね、と言われ始めています。空気を読めない人と、空気を読んでもらわないと困る社会があって、その間に障害が発生しているのに、なんで人の方ばかり問題にされるのか、とかですね。

発達障害の性質の1つに、音に敏感すぎるというのがありますが、それが異常か普通かは相対的なことだったりします。もしも聴覚過敏の人が多い社会だったら、音を立てる人が聴覚鈍感で社会に迷惑をかけると思われるかもしれません。

こういった相対性に気づいてゆくと、テーマは「少数派をいかに受け入れるか(普通と違うことを許すか)」ではなくて、「自分と違う相手を、あなたはどう扱いますか?」へとたどり着くわけです。

マイノリティを受け容れるというよりも、マイノリティという線引きそのものを不要としてゆくようなところを強調して、「インクルージョン」という言葉も使われるようです。「ダイバーシティ」という言葉だけでは、そこまでいけていないという現状があるのでしょう。

セクシャルマイノリティという分野でも、「ノーマル」という幻想が崩壊しつつあります。もはやLGBTQという言葉も使いづらくなっているのです。
(参考:(Post Not Found))

かつては、特定のマイノリティだけが集まる場が、マイノリティにとっての安全な場でした。そこでは、マイノリティがマジョリティになれる場でした。しかし、最近はマジョリティという感覚が必要のない、ミックスな場も増えています。

多数と少数の時代から、たくさんの個が共存する時代へということが起きているように感じます。これは意見として叫ばれているというのではなくて、人々のエネルギーがそちらへ向かっているという印象です。理想論というよりは、ある種の必然のようです。

昔の漫画のキャラクターで、今でいう同性愛の『パタリロ!』のバンコランとか、今でいうトランスジェンダーの『ストップ!ひばりくん』のひばりくんというのがいました。作者の方々は同性愛者とかトランスジェンダーというものを描こうとは思っていなかった、そんなものは知らなかったそうで、ただ存在し得るキャラクターとしてバンコランやひばりくんをつくったのです。そこにはキャラクターひとりひとりがあるだけで、マイノリティという概念はなかったのですね。差別への反作用でLGBTQとかの概念が生まれましたが、かつて漫画が描いたマイノリティという概念のなかったところへ戻ろうとしているとも言えます。

 

このサイトで扱っているテーマの、存在する、多様性、自分を生きるなどにも関係します。

参考文献:
『共生社会へのリーガルベース』大谷 恭子 著

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