怖れの壁を前にして、愛のかけらが零れ出る

大人のための心理セラピーにて

それは子供の頃の自分を救いにいくものと喩えることができます。

Kojunの心理セラピーで行うインナーチャイルドのワークは、それが具体的な形で表現されることがあります。

つまり、目の前に「子供の頃の自分」がいることを想像してもらい、その子を救います。

準備ができていない状態では、クライアントは「そんなことはできません」と言います。

とくに抑圧が強い場合は、「へ?」とか「どうすればいいんですか?」と言います。

救うことができない、その子を見捨ててしまうのです。

それはかつて自分がされてきたことと同じでしょう。

子供の頃の自分がされていたことを、今は自分自身が自分自身に対して続けているのです。それがワークの場面に如実に表現されます。

「へ?」と言うクライアントは、子供の頃に助けてくれるはずの人から「へ?」という感じで見捨てられたのかもしれません。

「どうすればいいんですか?」は、どうすればいいかわからない親に育てられたのかもしれません。

「この子は苦しんだままでいいのです」と言うクライアントは、苦しんだまま放置されたのかもしれません。

まあ、そこまで一致してないかもしれませんが、とにかく「助けられなかった」から「自分を助けない」のです。

「助けられない」という世界に適応してしまっているとも言えるでしょう。

「愛されない」なども同様です。どのような言葉が適切であるかは人によって様々だと思います。

適応して生き延びた人にとって、自分を救うことはとても恐ろしいことなのです。

Kojunの心理セラピーでは、インナーチャイルドのワークは最後に行うことが多いです。

その前に不可能を可能にしておく必要があるからです。

この例の「助けられなかった自分」のようなものをKojunは置き去りにされたもの(the left behind)と呼んでいます。矯正的アプローチが変えようとする中核信念よりも奥にあるものです。

かけらが零れ出てくる

インナーチャイルドのワークに限らず、自分を救うことができない状態というのはよくあります。

自分に見捨てられているから。

そこで、抑圧された感情に代表されるような何かを解放してゆくわけです。

簡単なケースだと抑圧を解くだけですが、愛が関与する場合は、「我慢するのをやめる」みたいなリラックスもどきは通用しません。

それでもクライアントは手掛かり足掛かりを探してもがきます。

そんなとき、些細なことを思い出すことがあります。「近所のおばちゃんが可愛がってくれた」とか、「迷子のときにおっちゃんが助けてくれた」とか。

小さな愛をもらった体験が思い出されます。

それは親代わりに育ててくれたというほど大袈裟なものではなく、なーんとなくでさりげないものだったりします。

「それを貰ったから私は大丈夫」とか言うほどの立派なものではありません。ですから、「かけら」と呼んでいます。

それがポケットから零れ出るように、思い出されたとき、クライアントは手掛かり足掛かりを得たように暗闇を破ります。

広義トラウマとはあまり関係なく、愛着安定化というほどでもない、そのかけらが不可能を可能にしてしまいます。

あなたのインナーチャイルドが無言だとしたら、かけらを握りしめているかもしれません。本人もなぜだか知らずに、それを無言で守っているのかもしれません。

Kojunは福祉や教育分野の関係者から子どもの環境について相談を受けることがあります。介入の難しいケースについて無力感を感じる関係者に対して、この「かけら」のお話をすることがあります。

気にかけてくれた大人がいたことをKojuのクライアントたち(相談事例の子どもの将来かもしれない)は覚えていますよと。それが克服の力になりますと。

※最近ではこの「かけら」は学術研究からも明らかになりPCEs(ぴーしーず, Positive Childhood Experience)と呼ばれるそうです。

次のようなことからも、「一人」いるかどうかが重要になることが示唆されます。

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私たちのような心理セラピストはこの「信頼できる大人」の続きの役割とも言えますし、またクライアント自身に子供の頃の自分(もしくはインナーチャイルド)にとっての「信頼できる大人」になってもらう場合もあります。

参考リンク

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