悩みの解消だったり、心の成長における、「なおさない」「治療しない」というのは、どういう感じのことを言っているのか、もう1つ例を挙げてみたいと思います。
たとえば、暴力被害トラウマのケース。心理セラピーでトラウマは解消はします。ですが・・・
なおるんだけど、なおすわけではない。
「なおす」スタイルの例
「なおす」スタイルの例としては、某被害者支援団体と連携している精神科医などでは、曝露法とか認知行動療法をするそうです。
加害者が男性であって、男性恐怖症になったような場合、曝露法というのは徐々に男性に近づけて慣らすようなアプローチですね。認知行動療法というのは「男性は(すべて)危険だ」という認知の歪みを気づきによって解消してゆきます。
「なおしている」でしょ?
ところが、それによって暴力被害の心の傷は癒えるでしょうか? というか、幸せになるのでしょうか?
男性に近づけるようになって(すなわち治療効果があって)、社会復帰はできるかもしれません。
それは、「なおった」だけでしょう。
「なおさない」スタイルの例
「なおさない」スタイルでは、男性恐怖症になったのは正しいことだと考えます。それは正常反応であり、男性恐怖症が問題なのではありません。
当事者感覚からすると、「男性恐怖症をなおしましょう」というのは、おそろしい考えです。はたして、問題は「私」の中にあるのでしょうか?
被害トラウマというのは、境界線が破壊された状態という説があります。戦争に負けた国が罪を被るように、あたかも自分が悪いかのようにされてしまっている状態といいますか。
ですから、「私は悪くない」というのが大事なのです。それを解決する前に男性恐怖症がなおったらおかしいのです。
被害にあったときに、えもいわれる感覚があります。たとえば、世界が真っ黒になるような。
それは自分の認知の歪みでしょうか? それは世界の歪みだと思います。現に暴力者はいたのです。それは妄想や幻覚ではなくて、実際にいたのです。
近年、認知の誤りや歪みが神経症の唯一の原因である、とあたかも新発見といった風潮で宣伝されている。(中略)彼らは患者が不合理な信念を持っているにちがいないという不合理な信念を患者に投射する。
J.ウォルピ『神経症の行動療法』p.160 認知主義:後退する治療理論
世界が真っ黒でないというのではれば、世界がそれをみせてくれる必要があります。「私」(相談者)の認知の歪みをなおすのではなく、世界が捨てたももんじゃないことを見せてくれる必要があるのです。責任は世界にあるのです。
たとえば具体的にいうと、こういうことです。あのとき助けてくれなかった人がいました。あのとき怒ってくれなかった人がいました。多くの相談者の前に立ちはだかっているのは、「私を見捨てた第三者」。
ですが、見捨てない人がいる、またはその人たちも見捨てたことを後悔している、「見捨てない」という世界がこの世界にはある。そんな体験が必要だったりします。
必要なのは被害者の治療ではなくて、「そんなことするやつがいるのかっ」という怒りだったりします。
たとえばそんなことです。
それが被害者のためのセラピーになり、結果的にトラウマ解消にもなるので、なおるといえばなおります。ですが、被害者をなおしているのではありません。被害者はなにもわるくないのです。
不幸な被害者を救済しているのではなくて・・・・立派に生き延びた人を称えているわけです。
被害トラウマを先に克服した人や、暴力現場で助けに入ることを経験した人は、被害者の立場の人が弱い人ではないことを体感しているでしょう。そいう人たちとの出会いを体験します。
なおすのではなく、出会うという感じです。
まあ、結果的にそれが被害者の治療ということになるのかもしれませんが。
※系統的脱感作法の応用に「怒り誘発法」というのがあり、怒りを使って恐怖に打ち勝つ想像上の体験をすることで恐怖症が改善する(その結果、日常生活において恐怖がなくなる代わりに怒りっぽい人になることはない)とされています。