「過保護」に関するとんでもない誤解

ある臨床家の先生は「過保護だとストレスに弱い子が育つ」と言っていましたが、私はそれは偏見だと思います。

心理学を教える立場の先生たちから、そのような言葉を聞くたびに心が痛みます。

甘やされたというより、トラウマに近い

保護されたから自分で守れなくなるとか、親が代わりにやってあげたから本人は出来るようにならなかったとか、一般的には思われていますが、私はそうでないように思うケースも多いように思います。それは自分で判断すする自由を潰された心的外傷のようなものであると。

過保護というのは一種の小児期逆境体験のようなもので、いくらか身体拘束に似ていると思います。子供は自律(自分で決めて行動する)をしようとするわけですが、それをさせないわけです。

たとえば、あなたが食事をするために箸をとろうとしたら、それを禁止され、他人によって口に運ばれたものを食べることを強要されたとしたら、どうでしょうか? 辛くないでしょうか。そのような5年間を過ごすことを思い浮かべてください。

人は「楽でいいねえ」と言うのですが、本人は苦痛でしかたないでしょう。

※これは親が悪者だという話しとは区別する必要があります。悪者にするか、この話題を避けるかの二者択一になっていることが根本問題だと思います。「親心を悪くいうのか!」と怒る人は多いですが、それが罠です。このトピックは親を責めるためではなく、親を許すためのものですが、とても強く人の怖れを刺激します。

※ここでの話の真意を読むには、家族というのはお互いに「お前が治すべき異常を持っている」と言い合うという性質があることを理解しておく必要があります。と言われても、「ほらね、お前は私のことを治すべき異常を持っていると言っているよ」と考えてしまいます。そうではなくて、相手がそれをするのは自然の摂理だという理解と、自分もしているという気づきが必要ということです。とても苦しい実践ですけれども。

行動できないのは楽を覚えて鍛えられていないからだと思われがちですが、本当は自由意思を奪われたのでしょう。大人の心理相談をしていると、なにかが出来ない悩みは自分で決める自由が禁止されていることが多いです。「しんどいからしたくない」「ついさぼってしまう」というのは殆ど聞いたことがありません。やってしまった方が楽だと感じているのに出来ないのです。

過保護によってそうなることはありますが、その過保護は甘い蜜ではなくて、恐怖です。

ひきこもり中年男性の例

あるひきこもり中年男性の事例では、大声で怒鳴るなどの問題行動の背景に、親に対する「自分を自立させてくれなかった怒り」があると語られたそうです。それを多くの支援職の方々の事例検討では「甘やかされて、引きこもりになったんだな」「もっと厳しくされたらよかったんだな」と解釈されることが多いようです。

ですが、私は違うと思います。この事例の詳細を見ていると、この人は、甘やかされたのではなくて、厳しくされたのだろうと思います。自分で自由に遊んだり、失敗したり、試したりすることが許されず、本人は怠け者ではなくて挑戦していたのに、それを親(など)が止めたり、妨害してきたということが考えらえます。

私の解釈・仮説では、ひきこもりの人が大声で怒鳴るというのは、必要なプロセスを実践しているようにも見えるのです。つまり、それはアクティング・アウトではなくてワーク・アウトなのではないかと。

たとえば、本人が自動車免許をとると、危ないからといって免許証を取り上げる。本人が服を買ってくると、親が「こんなのじゃ風邪をひく」と怒り狂ってその服を捨てて、別の服を着せる。子供が自立しようとすると、親が口をきかなくなって入院する。誰を友達にするかも、親が決める。

人の人生が狂うほどの過保護というのは、そういうものです。過干渉という言葉のほうが多少はわかりやすいかもしれません。

その的外れによって支援方法も外れる

 多くの人の認識: 怠けること/楽することが許されたから「自立」しない → 罰が必要だ

 私の考える可能性: 「自律」を取り上げられてきたから、「自立」できなくなっている → 自由と安全が必要だ

発達理論の枠組みで捉えるなら、自分でやりたい1、自分で決めたい2というのが自然と芽生えるということです。それは罰によって芽生えるわけではありません。

たとえば、危ないから、風邪をひくから、こっちのほうがいいから、と心理的な監禁状態がつくられることがある。普通は反抗期のような形でその支配に対抗するわけですが、たとえば親が取り乱したり、怒鳴ったり、脅したり、親が病気になってみせたりして、その反抗を鎮圧してきたというケースがあります。

※引きこもりの原因が親とは限りません。言いたいことは、「自立」(運転するスキルを
もつこと)ではなく「自律」(運転席に座らせてもらえるということ)の問題であることが多いということ。

ほとんどの対人支援職、教員、福祉関係者、臨床家は、こういった過保護の実態をわかっていなくて、「厳しくしてもらえなかったから怠け者になった」、「厳しくしてもらえなかったから、ストレス耐性が作られなかった」と理解しています。「無菌状態で育つと免疫が弱くなる」みたいに。そのように講演している臨床家もよくいます。

本人が挑戦しなかったからだと。

でも、私はそれとは違うケースを知っています。本人は何度も挑戦したのですが、そのたびにくじかれてきたのです。

怠けたから強くなれなかったのではなく、へし折られているのです。よくある支援は「鍛える」「訓練する」というものですが、本当に必要なのは「鎖を外すこと」だと思います。

たとえば、ある人が「自分で買い物ができない」のは、親がいつも買い物をしてくれて楽することを覚えたからではなく、自分で買い物しようとすると罰を受けて恐怖が刷り込まれたからであったりします。

マイノリティは本人に問題ありと判断される

多くの日本人は雇われ仕事に毎日不満をもちながら、独立できずにいるじゃないですか。「独立したら苦労するぞ、食えなくなるぞ」という脅しが刷り込まれているからです。それと同様に、「自分の判断でなにかをしたら恐ろしいことがおきるぞ」と刷り込まれると、働くことや、なにかの行動ができなくなります。それは甘やかされたとは違います。会社勤めに不満をもちながら独立できない会社員を「甘やかされて育ったからだ」と言わないのと同じです。

ですが、マジョリティはそのように判断されません。これは集団的な基本的帰属エラーという心理現象によるものです。

これは多くの人が「メンタル疾患の人たちは心が弱い。根性がない」「学歴の低い人たちは怠けたのだ」と思っているのと同様の偏見だと思います。

なにか人に問題がおきていると、その人に問題があると考える傾向を「対応バイアス」というそうです。社会はこの対応バイアスによって、苦境にあるひとたちに追い打ちの責めを浴びせているのです。それには、対人支援や福祉、心理学を教えている先生たちも加担しています。

心理学の先生たちは「過保護な環境で育ったので、ストレスに弱くなった」と言いますが、なんの根拠があるのでそうか。心理相談室で、クライアントの安心感が育ってきたとき、顔を苦痛にゆがめながら出てくる物語は、「過保護な環境で育ったのでストレス耐性ができなかった」人ではなくて「自由を奪われて、挑戦に罰を与えられて、そのストレスに潰されて動けなくなった」人の姿です。

「わかってもらえない」が私のクライアントのキーワード

上述のように年老いた親に怒鳴るというエピソードについては、多くの福祉職員たちは「甘やかされて育ったからワガママなのだ」と解釈するようですが、私がこれまで聞いてきた似たような事例を考えると、「ずっと支配されていた人が、やっと反抗できた」というエピソードのように見えます。やっと一歩を踏み出せたということかもしれないなと。

私のところに相談にくるクライアントの口から、「わかってもらえない」という言葉がでます。その人は悪者や病人として扱われてきている。3実はとても努力をされてきた人だったとわかることがあります。心理学の先生たちにはわかってもらえないのです。いろんな説や意見があってよいと思いますが、偉い先生が言うことだけが正しいというように心理支援業界が均一化されないように願います。

心理業界の均一化は、人工知能分野での「過学習」という現象に似ていて、複数流派の並存や他分野からの流入(アンサンブル学習)が必要であることが示唆されます。

対人支援職の人たちは、対応バイアス4により、まだまだ要支援者を見下しています。

人々がつながる方向へと時代が向かうといいなと思います。

数日後。早朝の海岸線に、ホテルに向かって自転車を走らせる彼の姿がありました。(中略)彼が両親に対して持っていた強い感情は、きっと石垣島の時間の長れの中で、ゆっくりと溶解してったのかもしれません。(中略)そう思うことで、彼をやっと理解できるうようになりました。

『親の「死体」と生きる若者たち』山田孝明 著(京都オレンジの会通信より)

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