人が死ぬとき後悔すること~「”なんでも治せる”を信じてしまった」編

「”なんでも治せる”を信じてしまった」

人の死に立ち会うお仕事の方々が、人が死ぬときに後悔することを挙げていらっしゃいます。それらに影響する心理課題について書いてみます。今回は、後述の参考文献から、「なんでも治せるというヒーラーを信じてしまった」について。

参考文献に載っているのは、医療を拒否してしまったようなケースについてですが、それに限らず、なにを信じるか問題に触れてみましょう。

「なんでも治せる」はあやしい

私もそう思います。まともな療法家は、自分が扱える範囲を知っています。

あやしいヒーラーは、「治らないのは、あなたの心が開いていないからだ」と言うそうです。たしかに、「あなたの信心が足りないからだ」的な言い訳は、インチキ療法の常套パターンかもしれません。

ですが、これがちょっと難しいのです。

たとえば、心理セラピー中にクライアントがセラピストの誘導にまったく従わないことがあります。たとえば、「目の前にそのいじめっ子がいると想像してください」と誘導すると、目の前以外の方向を向いて想像しないようにする。人によっては、そういったことは、起こります。さすがに、そのままでは効果は出ません。これを端的に言うと、「あなたの心が抵抗しているから、うまくいかないのだ」ということになるのでしょう。

私の考えでは、そういった心理的な抵抗があることも含めて、「なんでもは治せない」のだと思います。あるいは、本人が望むのであれば、その抵抗を解くための工夫を一緒に考えてゆくことになるのでしょう。

「私は悪くない」と思いたいので、「悪いのはあなたです」と言いたくなる、というのは一般的な心理的トラップです。療法家も人間なので、多少はそういういこともあるでしょうが、それが常となっているなら、そこに付き合わない方がよいでしょう。

※分かりやすさのために、一般的に使われる「治す」という言葉を書いていますが、私の心理セラピーは医療行為ではないので、ここでの「治す」は「悩みを解消する」の意味です。

実は、心の悩みに関しては、かなりの解決方法が知られています。なので、ある範囲において、様々なパターンの悩みを解決できますよ、ということはあるかもしれません。それでも、ある手法を使った結果、効果は一定ではないでしょう。そういう、自分に合っているかどうかということまで相談できる相手である必要はあるかもしれません。

ヒーラーがなんでも治せるのではなくて、単に方法がありますというだけのことです。ヒーラーが主体になっていることが問題です。

私の意見では、本人の主体性を奪うヒーラーに従うのは、後悔の可能性があるかと思います。

(強く意見を述べるのは、主体性を奪うということではありません)

なぜ、あやしいものを信じてしまうのか?

私個人の意見としては、おまじないのようなものはプラシーボ効果か、自分の望みを明確にする効果くらいかと思います。また、真実や自分の気持ちに偽りをもたらすものは、一時的に楽を感じて長期的には解決を遅らせると思います。

しかしながら、私が、あれはインチキでしょう、あれはホンモノでしょうと言ったところで、私を信じてよいものやらですものね。

大事なのは、「なぜそれを信じたくなるのか?」と問うことです。

人は無意識にとって都合のよいものを信じます。

語学の苦手意識がある人は、自動翻訳が普及して語学は必要なくなるという説を信じます。語学に自信がある人は、自動翻訳では出来ない大事なことがあるという説を信じます。

自分を含む人間のこの性質を認めましょう。

「都合のよいものを信じる」性質を批判するのではなく、「都合のよいものを信じる」性質を認めるのです。

批判すれば、心の罠にはまります(「自分だけはそんなことない」と)。認めれば、心の罠が解けます。

これ以上説明する必要はないでしょう。私の経験的感触では、この問いを投げかけられて、心の罠を解こうとする人、聞きたくないと耳を背ける人、だいたい半々です。

参考文献

医者が教える 人が死ぬときに後悔する34のリスト

※当サイトの記事には実践経験に基づく意見や独自の経験的枠組みが含まれます。また、全てのケースに当てはまるものではありません。ご自身の判断と責任においてご活用ください。

※当サイトの事例等は事実に基づいてはいますが複数のケースや情報を参考に一般化して再構成、フィクション化した説明目的の仮想事例です。

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