セラピストに叱られてる感じがしたとき

叱ることで人を変えられない

心理セラピーで人生を支配する根本問題を扱っていると、こんなことを感じます。

叱ることで人を変えることはできない。

叱ってもらうことで変わることもできない。

なので、深層心理に刻まれた心理課題(広義のトラウマ)を扱う場合は、「言うことを聞かないと治らないぞ」と叫ぶ治療者ではなく、セラピスト気質な人を選ぶのでしょう。

転移の場合もある

ところが、こんな場合もあるようです。

心理セラピーを途中で諦めた理由に「叱られてる感じがした」でというのがあります。どんな感じだったかは直接見ていませんが、セラピストに何か言われたというのではなく、沈黙をそのように感じたということです。

セラピーの中には沈黙があります。それは真っ白なスクリーンのようなもので、クライアントの心が投影されます。それを「暖かく待ってもらえている」と感じる場合もあれば、「叱られている」と感じる場合もあるのです。専門的な表現では、「クライアントは様々な心をセラピストに投影する」と言います。

そこで、セラピストが「叱っていませんよ」とアピールすることも考えられるのですが、あまり意味はないかと思います。

なぜなら、叱られたから逃げているのではなく、逃げると決めたから叱られているように感じるという順番だからです。

叱られたから逃げているのではない。

逃げると決めたから、叱られてると感じるのだ。

クライアントの心にあるものが投影されて、セラピストにどのようにか見えるという現象は「転移」と呼ばれます。

精神分析などでは、転移を分析の手掛かりにしたりするようです。

「叱られる」スキーマは根が深い

そんなときセラピストがどのようであるとよいかという話もあるのですが、一方で私が感じるのは、「叱って正す」という教育が根深いところでツケを残しているということです。

体罰賛成派の根拠の多くは、「自分が子供の頃にやられたから」だそうです。

中国雑技団を観たとき、子供たちが舞台の上で失敗しながら楽しそうにやっていたのが印象的でした。それと比べれば日本の教育は体罰こそなくしても、根本が罰によるものだと感じます。

ちなみKojunは転移されにくめ

私も人生の前半はスクリーンのように、よく転移されました。

でも、心理セラピーの実践をつむと、あまり転移されなくなりました。無くはないですが、カウンセリングでは少なめかと。

ですので、精神分析のように投影のためのスクリーンであることはやめて、個性や生き様をわりと露出しています。

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