子どもの頃に起因する生き辛さをもつ人たちが心理セラピーに来ます。
何十年もかけて準備して来ます。
そのような心理セラピーを3幕構成で外観してみようと思います。
第1幕:主訴
クライアントが悩みを述べたり、心理セラピーで扱う悩みを決めたりします。
この時点で、Kojunはクライアントが望んでいる未来の可能性について考えます。これは具体的にどうなるという未来像ではなくて、なにが変わるのか、なにが変わりうるのか、それがクライアントの望みと一致しているのかというところのあたりをつけるわけです。
心理セラピーの事前相談はこれにあたります。
第2幕:置き去りにされしもの
まず自身に、そして過去に探索を進めます。
「自身に」というのは、言葉で語られた主訴を、いまここにある現実や感覚として捉えること。大抵これは事前相談である程度は既に行われています。
そして、深層心理に触れます。それはすなわち、日頃感じていない、あるいは日頃表現していない思いや感情に触れることだったりします。
そこから幼少期や原家族に関する原体験が出てきたりします。原体験がエピソードとして具体的に出てこない場合もありますが、それでも「原体験のようなもの」を扱います。
主訴で語られた問題が、今の自分が望んで選択しているものでないとしたら、それを選択させている何かがあるのでしょう。それが「原体験のようなもの」です。
Kojunは、「置き去りにされしもの(the left behide)」とも呼んでいます。
もし、そうのようなものがない心因性のお悩みなら、その悩みは認知的技法(考え方を変える、心掛け)や行動療法で解決できるでしょう。これはそうではない人のための心理セラピーです。
喩えるなら、置き去りにされた自分(たいていは幼少期の自分)に会いに行くわけです。
会いに行けるかどうかは、どれだけ苦しんだかが関係しています。あなたがこれまでちゃんと苦しんできたのであれば、この仕事は達成されるでしょう。
第三幕:サルベージ
つまり、クライアントは奥底へと旅をするわけですが、そこから回復しなければなりません。見捨てられた状態から、救われた状態へ。愛されない状態から愛される(または自分で愛する、愛を受け取れる)状態へ。
原体験当時のクライアントにとっては、そこから這い上がることは難しいことでした。たいていは出来なくて当然のことです。
いまや大人になったクライアントにはそれが可能でしょうか? そのようなクライアントはどのようにして自分の中のそれを救済するのでしょうか?
そこから這い上がるとき、クライアントはこれまでに出会った人たちから得た「無償の小さな愛のかけら」を使うことがあります。それは自己犠牲的な大きな愛ではなくて、かまってくれた近所のおばちゃんなどによる、ちょっとした安心基地です。長い目で見るならば「仮の安心基地」と言ってもいいかもしれません。
この第三幕では、そのような「無償の小さな愛のかけら」が語られることがよくあります。
※最近ではこの「無償の小さな愛のかけら」は学術研究からも明らかになりPCEs(ぴーしーず, Positive Childhood Experience)と呼ばれるそうです。