「原因論の罠」と「目的論の罠」

旧い精神分析への批判にこのようなものがあります。

たとえば、過去に受けた心の傷や劣等感のせいで、日常的な行動に師匠が出ている人がいるとします。その人は、「あなたが苦しんでいるのは、過去にこんなひどい目に遭ったせいだ」と指摘されて、はたしてラクになるでしょうか。

『比べてわかる!フロイトとアドラーの心理学』和田秀樹

はい、指摘しただけではラクにはなりません。指摘するだけではセラピーとは言えないでしょう。

そこで、「原因」ではなく「目的」に注目しましょうというのが目的論です。

旧い精神分析がやっていたのは、道徳規範などによる抑圧によってヒステリー(変換症[1]心の問題が身体症状に表れるなど)が生じているようなケースでしょう。

ただ、過去に受けた心の傷や劣等感については、抑圧(もしくは忘れていること)が問題というよりは、やはりその傷や劣等感を癒す必要があることが多いでしょう。

指摘されてラクになるかどうかは、セラピストとの関係性に依るところが多いでしょう。セラピストの生き様次第とも言えます。

もしくは、過去の原体験が思い出されたところで、どのように受け止めてもらえるか次第でもあるかと思います。どのように向き合うか次第でもあります。

そこができなくて、親を恨み続けるというパターンは「原因論の罠」としてよく論じられます。

さて、ここで「原因を扱ってはいけない」とする目的論を私は「目的論の罠」と呼んでいます。

「原因論の罠」の教訓は「原因探しを目的にしてはいけない」ということであって、「原因を扱ってはいけない」という意味ではないのですが、そこを間違えてしまうのです。

昔、自己啓発セミナーというのが流行りました。そこでも目的論が説かれて、どうなりたいか夢を語らされたり、リフレーミングによって考え方を変えることが推奨されました。それによって成功した人を何人か知っていますが、それらの人たちはもともと広義トラウマを持っていない人たちだったように思います。

そして、それらの自己啓発セミナーで一定割合の「殻を破れない人たち」がいました。その人たちは今思えば広義トラウマを持っている人たちだったように思います。殻を破れる人たちは殻を破れない人たちを理解できません。弱い人とみなしていました。

つまり、目的論を好む心理専門家は、殻を破れる人たちだんだろうと思います。もしくは、心に闇を残したまま形式だけ殻を破って、あやしいセミナー講師になる人たちもいました。偽りの殻破りをしていると、他人にも殻を破らせたくなるのです。

過去から目を逸らして、偽の健康を手に入れて、自他を苦しめ続ける人もいます。

それが「目的論の罠」です。

たしかに、「原因論の罠」の弊害もあります。

たしかに、精神分析、過去を扱う心理セラピーで気分が不安定になったという相談はよくあります。ですが、それは「原因論の罠」ではなくて、プロセス途上の過渡状態[2]マージナルな状態、リミナリティと言ってもよいかもしれません。なのではないかと思います。

喩えるなら、心の秘密の箱が開いたけど、出てきたものを扱えていない、ということです。

そこで、箱は開けるべきではなかったと思うか、先へ進めてプロセスを完了したいかという価値判断になるかと思います。

先へ進めることを選ぶ人も多いです。

※私のところでの感情力動アプローチ(次世代精神分析?)は過去も扱いますが、旧い精神分析との違いは箱を開けた後を重視する点かと思います。

親からの虐待されていた幼少時の体験を思い出したことで、かえって症状が悪化するケースもあります。過去の体験を変えることはできないのですから、それも無理はないでしょう。(中略)心の状態が良くなるどころか、親への恨みを抱えたまま苦しみ続けることにもなりかねません。

『比べてわかる!フロイトとアドラーの心理学』和田秀樹

たしかに、形骸化した精神分析もどきなどでは悪化させるケースもあるでしょう。私のセラピーでは悪化するよりも改善することが圧倒的に多いですが。

私のクライアントでは、親への恨みを抱変えたまま苦しみ続ける道を選んだ人はいません。もともとそうだった人はいますが。

悪化するというのは、「解決のために思い出している」という状態ができいないのでしょう。本人の主体性が尊重されていないことも悪化の原因になり得ます。

「親への恨みを抱えたまま苦しみ続ける」というパターンは「原因論の罠」としてよく論じられます。

過去の体験を変えることはできません。恨みを抱えている人というのは、心のどこかで過去の体験が変わることを期待しています。だから未来を変えようとしないのです。

過去の体験を変えることはできませんが、情動修正体験ということは可能だったりします。よくあるのは、虐待そのものの痛みよりも、そこにある悲しみのようなものを置きざりにしていて、それを取り戻すことで回復するというようなことがあります。

ただ、そのときの体験を思い出すことに拘ると、状態が悪くなることはあります。ただただ思い出させるだけのセラピーが良い結果にならなかったという体験談はたしかに聞きます。感情や過去を扱うセラピーが形骸化するとそうなると思います。

過去を扱って再トラウマになっちゃったという人が、私のところに来て過去を扱って回復したこともあります。はたして、過去を扱うことが問題なのか、誰がやるかが問題なのか、やり方によるのか。

また、不用意に「あなたはPTSDです」とか言うと、その症状が強くなってしまうというのは戒められています。昔の精神分析が形骸化して、過去をほじくることが治療だとされているのでしょうか。

昔の精神分析はともかく、現在の力動アプローチでは、過去の体験を思い出すのは目的ではなくて手段です。

虐待体験を思い出した人が「親への恨みを抱えたまま苦しみ続ける」とは限りません。なぜなら、心理セラピーの目的は、苦しみ続けることではなく、幸せになることだからです。その目的を忘れて、親への恨みを増やすクライアントは見たことがありません。(最初から親の罪を確認するために訪れる人は別です)

もちろん「親への恨みを抱えたまま苦しみ続ける」パターンしか知らないセラピストに過去を扱わせないほうがよいでしょう。

私は虐待体験を思い出す心理セラピーワークを終えた人たちから、「親も親なりに愛してくれてたんだな」という感想を聞いたり、「今まで私は親を恨んでいたんだなと思います。でもそれは私の未来ではありません」と聞いたりしています。

虐待体験を扱うのは親を裁くためではありません。そこで起きることは、見捨ててきた自分に会いに行って、自分を許すためだったりします。ご自身に対して「ごめんね」と言う人もいます。親を怨むあまり自分を苦しめてきた生き方を手放す準備を整えているのかもしれません。

展開される世界観は人それぞれですが、「親のせいだ。私は被害者として生きよう」という結論を持ち帰ろうとするクライアントは殆どいません。

ゲシュタルト療法では、クライエントの問題は、過去に完結していない欲求や感情体験へのとらわれから起きるものと考えます。そのため、ゲシュタルト療法では、「今・ここ」で、地に存在している未完結な欲求や感情に気づき、図に上らせて完結することによって、本来人間に備わっているホメオスターシス機能や気づきのサイクルが機能するように援助します。

『「生きづらさ」を手放す 自分らしさを取り戻す再決断療法』室城 隆之

ゲシュタルト療法や再決断療法は、人間性アプローチといいまして、本人が克服する力を信じる自律性獲得のセラピーです。「親への恨みを抱えたまま苦しみ続ける」かどうかは、本人が選ぶことができるという信念があります。

過去を扱うのがよいかどうかはケースバイケースでしょう。私のところで「たいていは親を恨むことになる」とならないのは、何でもかんでも過去を扱うのではなくてクライアント次第にしていること、過去を扱いますよと告知していてクライアントもそれに合った人たちが来ているからかもしれません。

心理療法の善し悪しを心理療法家や専門家が評価している限り、クライアントは無視され続けるでしょう。

あなたはどうしたいのか、あなた自身が知っているでしょう。事前に担当セラピストから説明を聞いて、やりたいかどうか決めるとよいかと思います。

犯人捜しをして幸せになれそうにないが、過去を忘れることで幸せになれそうでもない。そんな人は、原因論の罠と目的論の罠を超えたところを求めているのかもしれません。

脚注[+]

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