かつてよくやっていたグループセッションでは、参加者の目的を訊ねて臨機応変にワークをしていました。即興ワークショップね。
ある時期から、自分の求めるものをうまく言えないというお悩みをよく聞くようになりした。なので、グループセッションの名前を「Wish(願い)」にしちゃったほどです。
Dream(夢)だと「それを叶えるために何をしますか」が中心になって体育会系な感じがするでしょ。それよりは、自分と繋がることを中心にするよな意味でWish(願い)。
さて、どうしたいか分からない人にも参加動機は訊ねます。
参加動機は必ずある
「どうしたいかわかりません」という人にも願い(グループセッションへの参加動機)はあります。申し込んだり、足を運んだりしているのですから、頭で分かっていなくても、行動が願いの存在を教えてくれます。
「自分がなにを求めているのか分かること」が願い(ワークショップ参加の目的)である、とすることは出来ます。
その場合はの願いは「わかりません」ではなくて「わかりたい」です。
「わかりません」ではなくて「わかりたい」と言えることは最初の難関です。
自分がどうなりたいか分からない人でも、「わかりたい」と言えれば道が開ける可能性はあります。そんな人たちのためのワークもいろいろ考えられます。
「わかりません」とか黙り込む人に対して、道は開けないです。「わかりたい」と言えない人に「自分がどうしたいか分かるためのワーク」を提供しても、分かるようにはならないんですね。願いを認めていないから。
願い封じ
「わかりたい」とどうしても言えない人もいます。願い封じの呪縛ですね。願いの実現が封じられているのではなくて、願うことが封じられているのです。
神社や仏閣などには、願い事を言う/書くための工夫をこらしたシステマが構築されています。人間にとって願いを言うことがどれほど大事であるかを示唆しているように思います。
たとえば、神社の絵馬は、願いを書いて、少し晒して、持ち出さす奉納して、記録が残らないように焼却される。何が苦しいかではなく、何を願うかを書かせるのがミソです。
不感症ぽい場合のワーク
どうしたいかわからないときに使える術としては、フォーカシングやゲシュタルトセラピーのようなイメージワークもあります。
写真カードを使う投影法もあります。
これらは、見失った自分を見つけるワークです。
リフレクティングプロセスという、他者の反応を観察する方法もあります。
こちらは、気づきのようでもあり、ちょっと創造的なようでもあるワークです。
ブレーキぽい場合のワーク
また、思ったことを思ったとおりに言う練習から始める場合もあります。
たとえば、写真カードの束を好き嫌いに別けるだけも出来ない人がいます。客観的に正しいことは出来ても、主観や思いつきを動作に表すことができないのです。
会社などでは「思いつきでものを言うな」とか「エビデンスはあるのかね」とか言われますからね。
リンゴの写真を見せて「これは何ですか?」と訊ねても、答えられない人もいます。「リンゴ」と答えればよいのですが、なにか素晴らしいことや、意味のあることしか言ってはいけないようです。
「意味が無いと死んじゃう病」と呼んでいます。
間違ってはいけない、全てに正解があるというのもよくあります。
そりゃ、自分がどうしたいか分からなくもなります。
なので、リンゴの写真を見て「リンゴ」と言うことから始めて、根拠のないことや、矛盾することを言う練習をする場合もあります。
自分のとの対話の先に葛藤
自分と対話が出来たら、葛藤が起きたりします。「したい。でも…」ですね。
葛藤というのは苦しいので、これを避けるために不感症になっているのかもしれません。
なので、葛藤を楽しめることが、どうしたいか分かるためのコツになるでしょう。
この葛藤を扱えそうな場と自分に出くわしたときに、プロセスが進みます。