被害体験のある人から「ゆるすってどういうことですか?」と訊かれることがあります。
その答えはもちろんその方が決めることですが、セラピストの意見もあります。
それはもちろん文脈次第ですが、またひとつの答えを挙げてみましょう。
前回の視点
以前ブログに書いたのは、「ゆるす」ということは「怒らない」ということではない…でしたっけ。
つまり、「ゆるす」は「許可する」ではないのです。
そこで言いたかったのは、もしゆるすにしても、ちゃんと怒らないと許せないよってことです。そもそも、ゆるすかどうかは、ちゃんと怒ることができてかでないと決めることが出来ないこともわけです。
そこで、心理セラビーでは怒りの練習ともいえるワークをするわけです。そこでは怒りは必ずしも攻撃ではないことを知ったりします。
今回の視点
さてさて、今回は少し異なる方向から見てみましょう。
それは被害体験がトラウマとなり、支配への抵抗力が弱まっているというお悩みの方の参考になるかもしれません。
今回挙げる答えは、「ゆるす」ということは「ゆるさない」ということ、です。
支配への抵抗力が弱まっているというのは、たとえば「理不尽な残業を断れない」とかですかね。
過去の被害ついて「ゆるせない」という病は、嫌々残業をしていることに相当するかもしれません。まあ、ピンとくる人だけ崎を読んでください。
さてここで「ゆるせない」を病と呼ぶらからには、「ゆるす」ことを推奨しているのかというと、そうではありません。
ゆるすかどうかを選べるということを重視しています。
許すかどうかを倫理的に決めようとしているのではありません。心理セラピストは、世間の規範や倫理でどはなく、その方の望みに応えようとしています。つまり、日常生活で困っている「支配される」を解決するのが目的です。
ここでは「ゆるすかどうか選べる」というのは「残業するかどうかを選べる」ということを意味しています。
支配されるという病が解消した状態というのは、「残業しない」ではありません。「残業するかどうか選べる」です。これを自由といいます。そして、それが「支配される」がない状態です。
「残業しない」と「嫌々残業しない」とも言えるでしょうか。
もしあなたが該当するお悩みの持ち主なら、あなたが欲しいのは、「残業のない日」というよりも「自由」ではありませんか?
もしもその悩みが被害トラウマによるものだとすると、もしくは被害トラウマがその悩みの解決のレッスンになってくれるとすると、ゆるすかどうかの前に、「ゆるすこともゆるさないこともできる自分」を手に入れることはよい体験になるかもしれません。
「ゆるさないといけない」でなくて「ゆるすことを選ぶ」です。
「ゆるせない」ではなくて「ゆるさない」です。
その自由が手に入ることを「ゆるし」と呼んでよいかもしれません。
「ゆるせる」ということは、「ゆるさない」を手に入れることと表裏一体です。
嫌々ではない残業ができるということと、残業を断ることもできるということも表裏一体。
「ゆるせる」人は「ゆるさない」もできるので、残業の要求にすぐさま嫌の意思を表現できます。
「ゆるせない」人は「ゆるさざるをえない」ので、そ残業の要求に嫌を表明するタイミングを逸します。深層心理は、とっさに現れるので、タイミングを逸するというよう形で行動に現れます。