心理セラピストが読み解く、映画『クジラの島の少女』

映画は人の成長や克服を描いています。心理セラピー(心理療法)もまた、そのプロセスを支援するものです。従いまして、よく似ています。

心理セラピストと一緒に映画を観てみましょう。

今回の映画は『クジラの島の少女』です。

あらすじ
クジラと関わりの深いニュージーランドのマオリ一族。その族長一家に女の子が生まれるが、おじいちゃんは、男の子の跡取りを見つけようとする。

みどころ1:自分の性別であってはいけない

主人公のパイケアは、望まれない性別で生まれてきたという刷り込みを受けます。それがこの映画のメイントピックであるということが、冒頭のシーンで宣言されています。

「男の子だったら跡継ぎになれたのに、生まれてきたのは女の子だった」という大人たちからのメッセージを受けてしまうケースです。

同様のことが日本でも、地方の本家や、お寺や伝統芸能などの家柄でみられます。交流分析的に言えば《自分の性別であってはいけない》禁止令(深層心理に刷り込まれたもの)です。

これが刷り込まれると、ボーイッシュになったり、男性に負けないようにと変な頑張り方をしたり、困難に直面したときに「私が女だから」と打ちひしがれたりする原因となります。(それ自体に良し悪しはないです。生きづらさや悩みの原因になる場合があるということです)
(注意:世のボーイッシュが必ずそうだとは限りません。知識を偏見に使わないようにお願いします)

「男に負けない生き方」で痛快に男どもを蹴散らす作品で観客を喜ばせることもできますが、心理療法の教えるところでは「私は女です」を受け入れて男と競うことを止める方が自由になります。(これが男尊女卑のように聞こえるとしたら、ご自身の心理に似た傾向があるかもしれません)

はたして、”私は女です”を受け容れることができるのでしょうか。
それを受け容れることは、シャーマン・リーダーにならないことを意味するのでしょうか。

それに関する台詞はありません。少女の服装を観てください。

みどころ2:男の子の世界に住む少女

女の子だからと武術を学ぶことを許されませんが、それでも武術をこっそり学びます。それを応援する人達もでてきます。そして、男の子に勝ったりします。

この映画の面白いところは、観客もパイケアが男どもを蹴散らすのを期待して応援してしまうところです。そう、必ずしも幸せになるとは限らない生き方って、応援したくなるものだったりするのです。その罠にはまり、それが生き方になってしまうわけです。

パイケアが男の子に武術で勝つシーンは、男性視聴者が観ても、爽快感があります。映画の中でもパイケアを応援する男の子、おじさんが登場します。実社会にもいるかも。

男どもを蹴散らしてもいいのですが、「蹴散らさないと生きていけない」「本当にやりたいことをやらずに、男を蹴散らすことに人生を使う」というのが問題(になる場合がある)です。

つまり、武術で男の子に勝つということ自体が、男の社会に呑み込まれているということかもしれないのです。たまたま武術が好きなら別ですが。

まあ、ちょっと蹴散らしてみるのもいいかもしれません。

でも、女の子じゃないと愛されないから男の子みたいになっているとしたら、そこを置き去りにして、それを生涯やりつづけるのはどうでしょうか。

パイケアがシャーマン・リーダーになるという結末が期待されますが、そうなった場合、「やっぱりパイケアは、それにふさわしい人物だったのね」とパイケアの人物像に感じ入るか、「よし、男に勝ったぞ」と感じ入るかの違いです。

この映画の前半では、学友が男の子しか登場しません。少女パイケアが無意識に男世界に組み込まれてしまっていることを、登場する学友が全て男子とうことで表現しています。

もし映画の途中ど他の女子が登場したら、物語の流れが変わったことを象徴しているでしょう。

そのときに、何によって/どのように、変化がはじまったかが描かれているはずです。

みどころ3: パパは大丈夫か!!(存在しないという選択肢)

パパは男の子でしたが、おじいちゃんの期待には応えられていないと感じています。(おじいちゃんが期待するのは超能力的シャーマンみたいな族長のようです)

だからこそ、娘には自分と同じ想いはさせたくないのかもしれません。

パパが象徴している深層心理の禁止令は《ありのままの自分ではいけない》《存在してはいけない》。

悩んで島を出るのは「ここには存在してはいけない」という心理です。少年の台詞「俺なら行く。ここ以外ならどこでも」もそれを説明しています。

これは自殺念慮に結びつく危険もあるのですが、ある種の芸術的感性(優れているかどうかは別)を持たせることもあります。案の定といいますか、パパは芸術家の仕事もしています。パパの作品を観てみたいところですが、この映画の観客は殆ど観ることができません。「この物語はそっちへは行かないよ」と言っているようです。

パパがパイケアを「ここに存在しない」へと誘います。

「ここに存在しない」という選択肢に対して、パイケアはどうする? その決断の直後に誰に会おうとする?

みどころ4: おじいちゃんは大丈夫か!!(加害者探しの罠)

セラピストが一番気にするのは、おじいちゃんです。実は主役かもしれません。

おじいちゃんは、嘆きながら生きています。そして、「誰のせいだ?」と呟きます。

これは、被害者-加害者ー救済者のトライアングルと呼ばれる罠です。カウンセリングに持ち込まれる人間関係に関する相談には殆どこのトライアングルが登場します。

クライマックスで、クジラを助けようとする不思議なシーンがあります。それは、おじいちゃんの心の中のトライアングルを表現しています。

そして、別の場面に「誰も悪くない」という言葉が隠れています。

被害者=クジラ、加害者=実はいない、救済者=おじいちゃんが理想とする強い指導者

おじいちゃんにとって、孫娘パイケアはシャドー(大切だけど都合の悪い何か)です。それを受け容れることができれば、おじいちゃんのセラピーは完了です。

ラストシーン

ラストシーン(舟の上)では、次の3点が揃って表現されているでしょうか。

  • 女の子であってよい
  • リーダーになってよい
  • おじいちゃんに愛されている

では、本編をどうぞ。 クジラの島の少女 [DVD]

【癒しのワーク】

海の底から拾ってきたシャーマン首飾りをパイケアから受け取り、おじいちゃんが受け取れるようになるまで預かってあげると伝えてください。


ある名作映画は、一生涯にわたり解決されないことが多いような、人生の問題をテーマ設定し、それが奇跡的または理想的に解決される様子を描きます。

一生涯解決しない人々が多い一方で、それらの問題は多くの人が共通に経験してきたものであり、心理療法(心理セラピー)の現場で繰り返し扱われ、長年にわたり研究され、解決方法が知られています。

※当サイトの記事には実践経験に基づく意見や独自の経験的枠組みが含まれます。また、全てのケースに当てはまるものではありません。ご自身の判断と責任においてご活用ください。

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