子どもの頃の実践
私は子どものころから、自分の感覚に従った様々な実践を行ってきました。痛みがあったり、苦しみがあったりしましたので、いろんなことを自分で試しました。お祈りしてみたり、ストレッチしてみたり、呼吸法をしてみたり、イメージワークをしてみたり、儀式(何かをする前の決まった動作)を取り入れてみたりです。余裕のあるときには、遊び心も発揮しました。
その当時は「お祈り」「ストレッチ」「呼吸法」「イメージワーク」というような言葉も知りませんでしたし、習ったわけでもありません。自分の感覚と想像力を頼りに、自由にいろいろ試していたのです。何かの真似から始まったものもあるかもしれませんが、正しさには囚われていませんでした。
大人になってから
大人になってから、想像力を使ってプログラムを作ったり、体験を再現してワークや研修を作ったりすることが好きになりました。
やがて、心理実践/心理セラピーを改めて学び始めたときも、知識を学ぶ学校でには行かずに、師匠のデモや自身のクライアント体験から始めましたので、言葉や概念は最低限でした。
しかし、そんな体験中心のコミュニティであっても、心理セラピーの練習会などで、「それは先生が教えた通りではない」などと指摘されることもありました。練習会でそんな指摘を受けているときに、クライアント役を担当した人が突然立ち上がり、「私にとっては良い体験だったぞ! やり方ではなくクライアントに起きた成果を見てください!」と声を荒げたこともあります。そんなときは、どうして自分はそうしたのだろうかと考察したりしてみました。
そして、後々になってから専門書を読み始めました。いわゆる臨床心理学の教科書ではなくて、昔ながらの専門書です。分かる人にしか分からないような不思議なセッション場面が描かれているのですが、その頃にはそれが読めるようになっていました。さらに後々になって、心理学部の学生が読むような教科書ぽいものも読んでみたり、普通の(?)研修に参加したりもしました。すると、時々、何かお勉強した直後は心理セラピーが一時的に下手になるという現象も体験しました。
心理実践の教え
そんな自由な私ですが、しかし、あるとき、ヨガのガイド音声CDを聴いていて気づきました。英語で何言ってるか聴き取れなくなってしまったのですが、「こうだったかな」と適当にやっていると、次にどうしてみたいか感覚がどんどん導いてくれたのです。
ガイドの通りの順番でしないといけないとか、必ず左右対称にやらないといけないとか、ガイドと同じタイミングでしないと効果がないんじゃないかとか、そんな考えが実践を難しくしていることに気づきました。ガイドを参考にしながら、ぼんやり影響されながら、身体の感覚が求めるワークをやっていけば、自分に起きていることがあるがままに分かってくるではないですか。
そういえば、そのガイドも、指示に無理に従わずに適当なところで止めたり、アレンジしたりするように助言していました。あるがままに気づけと。しかも、そのプログラムの後半には、ガイドを使わずに自由にやるというパートもあるのです。「ヨガの先生たちがやっている実践ははこれか!」と。
でも私のグループセッションや心理セラピーのファシリテーションもそんなものかもしれません。
そういえば、ありとあらゆる心理実践は殆ど、「先生に言われたから、教科書に書かかれているから」というのを手放して、感覚に従うようにと、最後には教えているように思います。
となると、私が子どもの頃にやっていた、我流という型すらない、感覚に従って柔軟にやっていたことが一番上手くやれていたように思えてきます。
心理セラピストというのは、いろいろ技術を学んだあげくに「回り道したなあ」と感じているのが一つの姿かもしれません。
専門家には自分と同じ学歴や資格をもってる人だけが専門家だとか主張したくなる時期があるようです。それは殆どの心理実践の教えとは逆なのかもしれません。
そういえばクライアントも
そういえば、私のクライアントについても、「最初から正しいことを言っていたなあ。私(セラピスト)が気づいてなかっただけだなあ」と思うことがあります。
「専門知識が人を救う」ということが専門研修の講師から言われる時代ですが、本人の感覚から離れたところには答えはないという実感が私にはあります。私にとっての専門知識は何が正しいかを教えるものではなくて、視点を与えるものだろうと思います。その視点でさえ、本人の感覚とは別のものです。
クライアントの感覚に従った実践を高めてゆくことが私の仕事かと思います。
私のクライアントと同様に、子どもの頃の私も、感覚に従った心理実践は渦中にあって既に出来ていたのでしょう。足りなかったのは「それでいいよ」と言ってもらえることでした。私がクライアントに提供しているのもそれかもしれません。