ある種の薄っすら希死念慮
経済苦や病苦などの「辛い状況から逃れたい」という意味とは異なる希死念慮を扱うときは、「生存」と「存在」が区別できているセラピストを選ぶのがよいでしょう。
「死にたい」と「消えたい」の違いです。用語の定義どうのではなくて、扱いの区別です。
心理セラピーでも「存在」という言葉を使います。それは「無条件の自己肯定感」とよく似ています。自己肯定感の欠如の方が、存在の欠如よりも、他者を意識する感じでしょうか。
「存在」の問題なのか、「自己肯定感」の問題なのかによって、基本的には心理セラピーのやり方が変わります。しかし、さらに主訴(クライアントの苦しみ)は「自己肯定感」の問題なのに、「存在」の問題が全く見えないところに隠れていて、「存在」のセラピー手順をしながら「自己肯定感」の言葉を使う必要があるなんてケースもあります。なかなかの職人芸みたいになっています。
あ、ちなみに、Kojun存在塾の「存在」はもう少し広い意味で、心が自由、自分を生きた人生になるというような意味です。
この後は、心理セラピスト探しに直結しないので、よろしければ読み物としてお読みください。
子孫を残すのは「生存」に近い
以前に「報道でLGBTQを持ち上げすぎると、生殖が減って、人類の存続をおびやかすのでは」という弁を聞きました。
※ちなみに、子育てをしているLGBTQはいます。私の小学生時代の同級生にはお母さんが2人いました。
それを聞いたとき、「人類の全員で生殖を担当しなくても人類存続は大丈夫だろう」と思いました。そして、ふと、「全ての人が生殖を担当しなくていいなら、私たちそれぞれ何を担当しているのかな?」とも思いました。なにかを担当しているような感じがするのです。それは、使命とかいうようなタスクではなく、私が「存在」と呼んでいるものかも。
ともかく、「生き延びたい」という「生存」の欲望と、子孫を残したり養育したりすることは繋がっているところがあるようです。
ゲイの人がエイズを恐れずにやりまくっちゃった話とか、トランスが命を縮めちゃう手術やホルモン投与をするということは、「存在」が「生存」と同じとは限らないという例なのかもしれません。
LGBTQだけでなく、子を持たずに閉経した人や、子育てを終えた人なども「生存」から「存在」へシフトするような感じがします。
もしかすると、昔の僧侶や修道士なんかもですね。
社会参加も「存在」
マクベスの「生きるべきか、死ぬべきか」は、”To be or not to be”ですから、実は「存在」ですね。
それは社会(家族のようなミクロシステムにしても、国や世界のようなマクロシステムにしても)に参加するかしないかということでもあるかと思います。
社会的ひきこもりというのは、ある面では社会において「存在」しないという症候群なのかもしれません。
体調、眠気、布団から出るのが寒いとかではなく「朝起きれない」という人も、軽く「存在」の問題をかかえていることがあります。
ひきこもり支援が就労や社会参加を促すことに終始して失敗してきたのは、「存在」の問題なのに「生存」を支援しようとしてきたからかもしれません。
数年前くらいまでは鬱病の人がこの「存在」の問題をかかえていることが多いと心理セラピストの間で話されていましたが、最近はそうとは限らない様子です。もしかしたら、ひきこもりへと形を変えているのかもしれません。
自己分析はしなくてよい
あまり、「生存」と「存在」の違いを自己分析してもしかたないのですが、心理セラピストは区別できる人でないと、あなたの希死念慮の言葉の意味を捉えてくれないかもしれません。
「死にたいほどつらいんですね」と言われて、なんか違うな―と思ったら、そう伝えてみたらよいと思います。「つらいからではないんです」とか少し言葉になってくるかもしれません。簡単に分かってもらえなくても絶望しないように。