「やっと分かってもらえた」、傾聴アプローチでもないのに、「やっと聴いてもらえた」との感想がよくあります。
「人を助けたいから」「助ける仕事に憧れて」心理職になる人が多い中で、Kojunは当事者の「強さ」「美しさ」に魅せられて心理セラピストになった珍しいタイプの心理職です。
心理実践の始まりは幼少期
最初のトラウマは、物心ついた幼少期に繰り返される苦痛でした。何度も嘔吐し、呼吸ができない状態となりました。今思えば見えざる者からの虐待のようでもあります。神様に祈り助けを求めましたが、神様は助けてくれませんでした。これは自分が悪だからだろうと思い、何度も誤ってみましたが、赦されませんでした。そこで、自助の道を歩むこととなりました。ヴィパッサナー瞑想の修行のように痛みを観察したり、アファメーション技術を使って自分を導いたり、苦しみが訪れると周囲の音に耳を澄ませ(五感によるグラウンディング)ました。このようにして、大人になってから学んだ心理技術の半分以上は自分で既に発見していたものでした。
知られざる在野の実戦系トレーニング
心理療法トレーニングは在野と学術界でずいぶんと違います。在野には実践系のトレーニングがあります。(学術界にも実践系トレーニングが全くないわけではないですが)
Kojunが最初に学んだのは在野の実践系トレーニングです。
学術系トレーニングでは、生徒同士でペアとなってロールプレイ(役を演じる)などを行います。深刻ではないテーマで練習します。主に「学術的に正しいこと」を教えてくれます。
一方で、在野の実践系トレーニングには、多くの当事者が参加しており、生徒同士の演習セッションでも深刻なケースを扱います。「今朝は家族を殴ってしまいました」というような虐待連鎖やトラウマ対人恐怖の渦中の人たち(仲間たち)が実際に回復してゆく過程に立ち会います。先生によるデモ・セッションは一緒に学ぶ仲間が目の前で受け、あとで愚痴や感想も聞けます。先生だからといって盲信されず、「ほんとうに助かるか」が問われていました。
総じて在野の方が生々しい訓練、リアルな実習でした。信頼関係による安全な場を作り、一般のクライアントにはさせないようなことも自主的に試すのでパニックや硬直などを起こす人もいましたが、そういったことを含めても、暖かく安全に体験できました。これを実践系トレーニングと呼んでいます。
大学(学術界の一部)でも「厳しい訓練」がされていると聞くこともありますが、それは教授からのダメ出し公開処刑みたいな厳しさだそうです。
医療・福祉業界の人たちは「在野のピアサポート=素人が傷を舐め合っているだけ」と思い込んでいますが、実際には学術界より10年ほど進んだ最先端の(といってもルーツは古い)セラピー実践をしていました。
ただし、最近では在野の講座でも、体験的訓練をせずに知識だけでセラピストになろうとする人が増えているそうです。逆に、一部に大学で学んだ心理師の中にも体験を重視する人たちは一定数います。
魔女狩りと社会構造的トラウマ
私はもともと「心理セラピスト」といえば、心の苦悩を内側から知る者だと思っていました。心理学用語より前に学んだ「経験の言語(というか非言語)」を内的言語の母語として使う—それが当たり前だと。これをネイティブセラピストと呼んでいます。
後に、当事者を外から視て、体験ではなく教科書や権威者から学ぶノンネイティブな専門家がいることを知りました。大学で心理学を学んで自信満々の彼らは私たちを否定しました。ある大学教授からは「大学で心理学を学んでいないくせに開業なんぞしおって」と激怒され研究会への参加を断られました。ある若い心理師は「大学で学んでいない人がカウンセリングするなんて許せない」と言いました。しかし、その一方で私は当事者たちから「大学教授らのカウンセリングが役に立たなかった」と何度も聞かされました。
当事者しか知らないことがあります。たとえば、「克服した当事者と会って、適度な距離感で関わることが、どれほど役に立つか」についてはノンネイティブ専門家は知りません。知っていたらノンネイティブ・セラピストの追い出し、魔女狩りなどしないでしょう。「当事者会は是非やってください。ただし、権威から学ばない限り、経験を積んでも専門家になれるとはゆめゆめ想うなかれ」と。
ノンネイティブ専門家は専門家なのだから全て知っているだろうという幻想を抱く人もいます。それが権威に力を与えます。心理学などの専門用語では「専門勢力」「権威勢力」などと呼ばれ、自分たちにとって都合の悪い者を排除する力を持ちます。その暴力によってトラウマになる被害者もいますり。社会構造的トラウマの一種です。
しかし、私は理解あるベテラン心理士(ノンネイティブ)たちもいて、Kojunもなんどとなく彼らに助けられました。
私は学術界で学んだ人たちとネイティブ・セラピストの両方が必要だと直感していました。そこで、いまさらと思いながらも大学で学んだ若い心理師たちが参加する学術系のトレーニング・演習に参加してみることにしました。そこでは「経験者だから技術があるのは当然としても、それ以上にプレゼンスだけでこんなにセッションが違うのか」と驚かれ、帰り際には何人かに呼び止められて「参加してくれて、ありがとうございました」と言われました。
サバイバーの尊厳
「助ける側」ではなく「助かる側」として世界を見てきました。
当事者共同体というと世間は「素人が傷を舐め合っている」と想像しますが、全く違います。そこでは様々な実践が試みられています(いました)。サバイバーは学術界より20年進んでいます。
PTSDからある程度回復してから相談にくるクライアントもいると言うと、ある権威者は「PTSDは自然には回復しません!」と声を荒げました。。確かに何もしなければ回復しないのがトラウマですが、当事者は何もしていないとも、助け合う仲間がいないとも限りません。学術界は自助・共助で回復した当事者たちが大勢いることを知らず、全て自分たちが救っていると思い込んでいるのです。
私は当事者共同体の中で自力で克服した当事者たちを見てきました。「サバイバーは専門家がいないと助からない」とは思っていないことが専門化してきた支援業界では珍しい特徴になっています。
また、当事者たちと共同体の中で心理セラピーを学んだことなども、専門家が興味を持たない様々な当事者事について知っている理由です。
City Shadow – 社会構造的トラウマ
心理セラピストになる前から当事者世界の事例を見てきました。学術界から遠い場所で、過剰反応、自己犠牲癖、マインドコントロール依存、性的逸脱行為、愛情恐怖などの人たちの生活風景を見てきました。
授業や教科書でも学びより先に現物を見てきたセラピストは今では稀です。また、面接室でクライアントの話を聴く専門家の臨床経験とも異なります。彼らの日常に触れ、人生に異変のある人々に共通の非言語のサインを体験的に知りました。その後に、交流分析理論と出会い、体験知が体系化されました。
支援の決まり文句、サバイバー養護の学術言説のコピーの「きれい事」や「限界」を体感的に知っています。
トラウマ・サバイバーに対して「それは自然な反応です。あなたは悪くありません」と思っているから言うのか、そのように言うように習ったから言うのか。
何が本当に役に立つか/立たないかを嗅ぎ分けてきました。そして、「それは自然な反応だ」「あなたは悪くない」と言うようになりました。支援マニュアルの台詞を暗記したのではなく、実際に見てきたのです。トラウマになることで人が生き延びるときを、被害者が悪者にされる瞬間を。
権威者から学んだ理解ではなく、目撃による理解。
