ウーンデッド・ヒーラー
「ウーンデッド・ヒーラー(傷ついた癒し手)」はユングの概念です。
心に傷がある(当事者体験のある)人が心理支援に能力を発揮するというような意味です。
※Kojunは同じような意味でネイティブ・セラピストという言葉を使っています。
不幸自慢ではありません。当事者体験がある人にしか見えないことがあるということです。
泳いだことはないけど教え方は知っているという水泳コーチと、泳いだことがある水泳コーチの違いのようなものです。
傷をなめ合うような世界を想像する人もいるようですが、そういうことともだいぶ違います。
また、「強いものが弱いものを助ける」という世界を期待する人は、ウーンデッドヒーラーは頼りないと思うようです。
例えば荷物運びなどで、体が強い人が体が弱い人を助けるというのならそうでしょう。が、それはヒール(癒し)しているのではありません。
だいぶ誤解のあるこの言葉です。「大丈夫な人が、大丈夫ではない人を助ける」というのが常識ですから。
そのように、傷のない人が傷のある人を助ける世界観を、私はヘルシーヘルパー・モデルと呼んでいます。
回避し難い現実を背負う人に必要な、マインドフルな視野、「みじめじゃないぞ」でもなく「みじめだ」でもない何かを一緒に見ることができるからです。
当事者の力
アダルトチルドレンが他のサバイバーと会って、目があってニッコリしてもらった。それがきっかけで自身の心の問題が一気に回復に向かったという例があります。
セクシャルマイノリティのワークショップでも、不思議な性別超越者たちが集まる場で、なんとも言えない赦しの世界が創られて、それまで苦しみと怒りたけだった人が、ふと穏やかになり、生き方が変わっていったこともあります。
それらは傷ついて生きてきた人が、そこにいる、そのプレゼンスだけで人の心を癒やすことがあるという例です。
ピアサポートから治療者や癒し手へとたどり着くケースが、ウーンデッド・ヒーラー・モデルです。
同書によると、ケアすることと、ケアされることが表裏一体となり、患者やクライアントの中の内なる治療者が活性化するとも。
パッチ・アダムス。ピエロの格好をしたりして、患者を笑わせる医療を実践した精神科医だ。彼はもともと自殺企画のあるうつ患者だったのだけど、精神科病院に入院しているときにほかの患者を笑わせて元気づけたことが回復のきっかけになる。だから(中略)患者をを笑わせ、癒やす。そして、自分もまた癒やされ続ける。
(中略)ブラックジャックは幼きころに爆弾によって体をバラバラにされた。それをある名医が縫い合わせて助けてくれた。すると成長して医者になったブラックジャックは天才的な外科技術を駆使して、人のことを切り刻み、そして縫い合わせる。
東畑開人『居るのはつらいよ ケアとセラピーの覚書』
たとえば、性別やセクシャリティで悩む人のカウンセリングに、セクシャルマイノリティのカウンセラーは悪くないでしょう。
今日ではLGBTQを異常だと言う心理支援者はいませんが、それは教科書が改訂されたからにすぎません。多くの心理支援者がLGBTQを異常者だと扱っていたことは、当事者である私は実体験として知っています。再び教科書が改訂されてLGBTQが異常とされれば、多くの心理支援者はまた態度を変えるでしょう。
しかし、「みんなと違う」という実体験に基づいて人を観る力を養った人たちは、最新の教科書がどうあろうとも態度を変えたりはしません。必要なのはそんな人たちでした。私はそんな人たち(支援業も非支援業も)のおかげで生き延びました。
またたとえば、犬に噛まれた恐怖症のセラピー依頼があったとしますね。当事者体験を重視しないセラピストなら、恐怖症のエビデンス資料や標準マニュアルなんか調べます。ネイティブセラピストの私はまず近所のよく吠える犬のところに行って手を出してみました。まず噛まれてみないと恐怖症はわからないってことです。
やってみればわかりますけど、飼い犬の前に手を出すだけで、けっこう恐いですよ。体験せずに資料を読むなんて、小説の最後のページだけ読むようなものだと分かります。
なんらかの当事者体験があるからと言って、他人の気持ちがわかるとは限りません。わからないということがわかるのかもしれません。それでも何かが違います。
らリゾラッティらは、このミラーニューロンの働きによって、他者の行為をあれこれ推論しなくても瞬時に理解できるのではないかと考えた。(中略)最近、相手の痛みや感情の理解にもかかわっている可能性を示唆する研究も出てきている。
『お母さんのための児童精神医学』根来秀樹
さらに言えば、ユングの言うウーンデッド・ヒーラー(傷ついた癒し手)というのは、たんに当事者の気持ちがわかるということよりもっと大事なことを言っているのだと思います。
知識と体験
セラピスト自身がどれくらい深く潜ったことがあるかが、クライアントをどれくらい深く支援できるかの限界になると昔から言われてきました。
言うなれば、「正論が通用しない世界をどれくらい身をもって知っているか」だと思います
「どれくらい矛盾を呑みこんでいるか」だと思います。
大切な人を亡くすこと、それは誰にでも訪れる喪失体験である。しかし、私たちはその体験がどん苦痛を伴うかを、「そのとき」が来るまで実はよく知らない。
『グリーフケア 死別による悲嘆の援助』高橋聡美
自分自身がそうした体験(息子が脳死状態)をしている時に、脳死関係の専門の学界の先生に会ったり、学会の講演を聴いたりしましたが、そういう場での専門家の発言は非常に冷静で客観的で科学的なわけです。「どうして日本では臓器を提供しないのか」「どうしてそんなに死んだ体にこだわるのか」「脳死を人の死と認めない看護師もいるようだけれども、そのような看護師は看護師じゃない」などと堂々と言うわけです。(後略)
自分のこととして体験した人と、ただ専門的に学問としてやっている人の違いは大変に大きい。
柳田邦男『悲しみとともにどう生きるか』
このような体験談は心の悩み、臨床心理の分野でもよく聞きます。それでも多くの人たちは「偉い先生」を信用するようです。
今日では心理学の知識を暗記したカウンセラーを増やそうと整備が進められています。
私が受けた心理セラピーのトレーニングでは、「どこ見てるの? クライアント(来談者)を見なさい」とよく言われました。いかに知識に頼らずに状況を判断できるかが問われるのです。瞬間瞬間にセラピストが何者なのかが問われます。それは自身の傷をどれくらい見つめたかが問われるのです。そもそも傷がない人はトレーニングすらできないわけです。
これは、存在 vs 知識 の対立だと思います。対立しなければいいのでしょうが、対立してしまっているように思います。。個人的な意見としては、バランスをとろうとせず、両方を大切にできたらと思います。
そして最後に捕捉。傷ついた人のすべてがウーンディッド・ヒーラーになるわけではありません。ウーンディッドとウーンディッド・ヒーラーは別です。
追記:
ウーンデッド・ヒーラーの価値が認められる(というよりは、心に傷なんかないという人が支援者に向いいるという誤解がなくなる)といいなと思います。ですが、心理支援者がプロフィールに心の傷のことを書いても、簡単にはそのことは伝わらないかもしれないとも思います。