心理職の直観 ~ 暴れる子供の例

暴れる子供の例

ここでは、なんとなくそう思うという「直感」ではなくて、知識を介さずに直接に観る「直観」について書いてみようと思います。

福祉教育にあるような仮想事例を挙げてげてみます。

ある子供がよく暴れるという問題行動のケースがあったとします。

で、どうやら家庭の環境に問題があるらしい。たとえば母親の恋人から暴力を受けているらしい。そこで、知識を使うと「虐待、問題行動」→「愛着障害」という見立てがされたりします。で、その治療の話題になるのです。

より精度の高い知識があればこれが間違いだと分かるという意見もあるでしょう。

しかし、私は直観を持つほうが現実的だと思います。

愛着障害という知識には振り回されず、そのケースそのものを観ると、問題行動は虐待環境から救出されるための発信であるという見立てもできます。

つまり知識というのは、焦点を提供するので、直観を鈍らせるのです。

エラの知識があると、ウロコが見えなくなるのです。

※じつは「虐待」という言葉もへんな知識の影響を受けてしまう言葉です。ここでは加害者の悪事というような意味は含まずに使っているつもりです。

見えているものをちゃんと見るのが直観です。

直観を使えば、問題行動が状況(特定の刺激)への反応ではない、常態化したものであり、その子はしっかりした思考判断能力があることも見えます。

暴れるのは、子供の力ではどうしょうもない状況に対して、周囲の大人を最大限に信頼した最善策なのかもしれません。つまり、家庭の中では解決できないから介入が生じるように材料をばら撒いているとも捉えることができます。子供には表現方法が限られていますから。

伝え聞いた私でもそこまで直観できるわけですから、直に子供を見ている職員さんは言われればしっかり見えるようです。

愛着障害なのではなくて、愛着障害にならないように助けを求めている。

しかも、腰の重い大人たちがアクション取れるような材料を提供しています。大人たちがアクションを避けようとしている事実も見えてきます。

本当に起きていることをそのまま観ようとすることを、知識が代わり埋めるとは限りません。

知識に喰われないために、直観が必要です。

馴れ馴れしすぎる子供の例

別の例を挙げます。

こちらは、なんとなく感じとるほうの「直感」について。

虐待を受けている子供がやたらと人懐っこくなるという現象があります。誰とも喋らない被虐待幼児にも会ったことがありますが、真逆という感じでしょうか。

前者は精神医学の診断マニュアルでは「脱抑制型対人交流障害」という言葉があり、後者には「反応性アタッチメント障害」という言葉があります。

知識のある心理専門家でもそれが「脱抑制型対人交流障害」であると気づかない人は多いです。言っても理解しなかったです。また、気づいたとしても、あくまで知識との照合なので、なぜそれが起きているのか、なぜそれが維持されるのか、こうすればどうなる、といったことを推定するメンタルモデルはありません。ただ、ラベリングするだけです。

私はそのような子どもを初めて見たときその診断用語は知りませんでした。知りませんでしたが、そのような子供を見てすぐに虐待の疑いに気づきました。メンタルモデルがあるからです。

体験からの学びではなく、知識化された知識を取り入れる学習を「ダウンロード」と言います。ダウンロードされた知識同士は創発的につながりにくいという特性があります。

ある交流イベントで、やたら明るく、初対面で抱き着いてきたり、馴れ馴れしくパンチしてくる子供がいました。人懐っこく憎めないので、大人たちに人気で可愛がられていました。

私は「あ、この子は虐待されている」とピンときました。(実は心の中で「虐待」という言葉を使ったわけではありませんが)

その知識はありませんでしたので、「おやっ」という直感です。丁寧に解釈すると、この「直感」も「直観」からきています。

その子の楽しそうな表情や、あまりに完璧な大人の気を引く可愛らしさから、いくつかのメッセージを読み取ったのです。

多くの大人たちの解釈は「父親がいないから寂しいのかな」となっていました。

でも、不自然なのです。イタズラしたかと思うと、幸せそうな笑顔を浮かべたりするのですが、あまりにも大人が喜ぶツボを抑えすぎているのです。

ADHDとの判別が難しいとよく言われるのですが、ネイティブ感覚のある者からすると、多動と脱抑制は印象が違います。脱抑制型アタッチメント障害という概念を知っていたとしても、ダウンロード知識や辞書概念を使っていると、判別は難しいかもしれません。

そして、パンチで大人男性とじゃれるとき、「僕はもうお母さんを殴り返す腕力があるんだ、どうしよう」みたいな感じがあり、悲しみや怒りをぶつけておいて、「なーんちゃって」と逃げてゆくような感じ。

症状や行動から障害名/疾患名を連想するというよりは、その子はなぜそんなことをするのかという背景が、ラベルも疾患概念もなく届いてくるのです。

知識重視の専門家が「その子はなぜそんなことをするのか」と問われたら、学術論文を検索するでしょう。実践家のセラピストは、その子から流れ込んでくるものを観察します。

そして、その子の現象は障害というよりは、その子が生き延びる、よく生きるためのものものだとも直感しました。

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