心に課題をもつ人が「カウンセラーに話を聴いてもらえない」と言っていたら、私は「おしい!」と思うことが多いです。
それは自己メンタライジングへの機会
「話を聴いてほしい」「聴いてもらえなくて、私は・・・だ」と言えるまで、あと一歩です。自己メンタライジングの可能性が開けたということかもしれないのです。
「あんたは聴いてくれない」ではなく「わたしは聴いてほしい」と自分の気持ちに触れることが回復への道なのですが、「聴いてもらえない」はその中間くらいでしょうか。
また、言葉の字面では判断できません。「聴いてほしい」という意味の「聴いてくれない」もあれば、「聴いてほしい」と言いながら自分の気持ちに触れていない場合もあります。
聴いてもらえないとイライラしますが、それは「聴いてくれる人が必要だ」と自覚するというとても重用なプロセスかもしれないのです。ちゃんと聴いてもらえるということはどういうことなのか、わかるようになれば非常に強力です。ただ頷いてもらえばよいわけではないこともわかるでしょう。
プロクライアントでもある私もカウンセラーに「ちゃんと聴いてほしいい」と言ったことがあります。そして上手くいきました。
話を傾聴することで話しやすくしてくれるカウンセラーは珍しくありませんが、「あなたに聴いてほしいんです」と言わせることができるカウンセラーは貴重かもしれません。
魂を聴いてもらうために、魂以外を聞き流してもらう
話を聴いてもらえること(傾聴アプローチ)で救われるか、悪化するかは病態水準などにもよりますので、善し悪しは一概には判りません。
私のワークショップに来たことある人は、参加者がプログラムを脱線して話しはじめたときに、みんなでその人の話を聴く時間にする場合と、遮って話をとめる場合があるのをみたことあるかもしれません。
聴いてもらえる場を求めて参加している人もいれば、稀に暴走を止めてもらう体験を求めて参加している人もいます。
映画『ジョーカー』の2人のカウンセラー
映画『ジョーカー』にはカウンセラーが2人登場します。この2人の違いは興味深いです。本当にいそうで、リアルです。
主人公が「話を聴いてくれない」と怒る相手は序盤に登場する予算打切り寸前の福祉施設で働いる不愛想なカウンセラーです。終盤に登場するもう一人のカウンセラーは、立派な病院に勤めていて、優しい表情で主人公の言葉に関心をもつ、お手本のようなカウンセラーです。
勝手な想像をすると、不愛想なカウンセラーのカウンセリングはまあまあ上手くいっていたのかもしれません。主人公は笑い反応(発作)ではなくて、自分の気持ちを話せそうになっていたのですから。