心や性格の問題で、幼少期の影響ではないかと思われることがあります。たとえば、警戒心が強すぎて人を信用できない、かと思ったら危険な人物に限って信用してしまう。たとえば、人目を過剰に気にして生きていて、自分がどうしたいのか感じ取ることも出来なくなっていて、夜に意味のわからない涙が出る。現在・未来志向で考え方を変えるだけでは解消しないこのような呪縛のようなもの。
自分の中にある苦しみに気づいた人たちが、その影響の可能性について語ったとき、「子を思わない親がいるもんですか。親のせい、人のせいにしとったらあかんわ」と説教されてきた人たちの苦悩、それが苦悩であることも分からなくなってしまった人生の辛さは人の幸せの可能性を奪っていると思います。
一方で、「親のせいではありません」という言葉は子育てに悩んでいる方々をホッとさせるので、とても人気があります。専門家も好んで使います。
「せいだ」という言葉には責任放棄、他者に責任を負わせるニュアンスが強いので、「影響がある」「回復のために過去を扱う必要/効果がある」と「せいだ」は区別する必要があります。心理セラピーに挑みにくるクライアントたちは「せいだ」とはあまり言いませんが、その影響には気づいています。
せいなのか、せいではないのか、というのは残念な議論です。誰が悪者なのかという関心に囚われているからです。
結論からいうと・・・
結論から言うと、「親のせいだ」と思いながら生きること(親が責任をとってくれるまで幸せにならない)はお勧めしませんが、親の影響について考察すること(苦しみの正体を知る)をタブー視することもお勧めしません。
脳のせいかもしれない!?
「親のせにしてはいけません」と講師や精神科医に怒鳴られたという話も何件も聞きました。
(その背景のひとつには、なんでもかんでも幼少期に原因を求めて、過去をほじくるだけ、あるいは勝手に解釈しちゃうみたいに形骸化してしまった精神分析(もどき?)への批判、反発もあったようですが)
「親のせいではない」と相性のよい話としては、ひとつには脳の特性が原因となっていることがあります。神経伝達の仕組みに特性によって、びっくり反応が激しい、うつや不安になりやすいなど、様々なことが脳神経の研究で解ってきています。それが、もともとの特性なのか、出来事によるトラウマ的なものなのか、幼少環境の発達トラウマ的なものなのかは様々な可能性がありそうですが。
脳科学の研究者たちは、脳というハードウェアに原因というかバイオマーカーを見つけることで、患者や当事者の訴えが作り話ではないことを証明していますが、「誰のせいだ/せいではない」については慎重です。
それでも、脳のハードウェアや部品要素に原因を求めると、過去の影響だったとしても、治療で過去を扱う必要性は低い印象を与えます。(そうではないと思いますが)
ナラティヴを取り入れた心理セラピー
ところが、たとえば、子どもの頃に養育者の心の不安定によって煙草の火を肌に当てられて育ったような人の場合、あるいは大人たちに不安をなだめてもらう体験がなく育った人の場合など、その体験が脳というハードウェアの何某というより、心というソフトウエアの成り立ちに影響していることがあるようです。
そのような場合はお薬で神経伝達物質の過不足を調整するとかいうよりも、「”お前のせいだ”と言い聞かされていたが、ほんとは自分は悪くなかった」とか、「それは確かに理不尽だった。しかし、ああ、自分は生き延びたのだ」とかいうナラティブ(意味づけやストーリー構築)を取り入れた心理セラピーが「人を信用できない」「人目を過剰に気にする」などの解消に役立つことがあります。それも、頭や言葉で考えるだけでなく、体験的な技法のほうが効果は強いです。
脳へのアプローチが強力で、ナラティヴへのアプローチが弱いという印象をもたえるかもしれませんが、ナラティヴへのアプローチは強力です。脳のエラーを修正するのではなく、脳そのものの力を解放するからです。
ナラティヴは過去と現在と未来を繋ぐものなので、過去を無視しません。また、因果関係というほど決定論的ではないにしても、経緯という関係は見出します。過去の私は私ではない・・・とはしないのです。
そのナラティブなアプローチとか、体験的な技法の中では、過去にこんなことがあったとか、それを今思い出すとこんな感じがするとか、かつて言えなかったけど思っていたことを今言ってみるとか、過去を扱うことが効果があります。もちろん、やみくもにほじくるわけではありませんが。その中では、親のことも扱います。正確に言えば、親との関係を扱うのであって、実在の親に復讐などするわけではありません。
Kojunのクライアントたち
ある学者さんは、過去の被虐待などを扱う心理セラピーは、親への恨みを喚起してしまい、問題が悪化すると言います。ある医師は、親のせいにしても解決しない、薬で脳を治すのだと言います。
このような「親のせいにするな」系の言葉は、それぞれの文脈において意味があるものの、上述の心理セラピーの有効性などを鑑みると、無条件に真に受けるべきではないと思います。
私のところへくるクライアントの多くは、余命僅かな親を看取るため、老いた親の介護をするために、被虐待の恨みや複雑な気持ちを卒業するために、心理セラピーを求めてきます。
「恐かったし、悲しかったし、苦しかった。「親のせいにするな」と怒鳴られたりして、それを無かったことにして生きてきた。親を恨んでいるか? はい、恨んでいると思います。そんな自分を恥じて生きてきた。でも、もう時間がないのです。そんな親でも、そんな親だからこそ、私は看取りたいのです。笑って介護をしたいのです」といった具合に。
※もちろん、親の介護なんかするつもりのないクライアントもいます。それはそれで。
そこで、恐かった、悲しかった、苦しかった、とんでもねー親だったなどということを無かったことにするのではなく、ちゃんとあったこととして(心理セラピーの場でこっそりとかもしれないけど)表して・・・、ずっと頼ってきた「どーでもいいや」に頼って逃げずに直視して、「親のせいではありません」なんて綺麗ごとも、自分への不正直も崩れて、それでも残った自分の心を大切にするわけです。
そんなクライアントたちが、心理セラピーをしたから親への恨みが増幅するはずないじゃないですか。いや、怒りは出ますよ。綺麗ごとへの「No」は出ますよ。でも、親への恨みに人生を捧げる方向に行くことはありません。逆です。
原爆被害者の言葉に「赦そう。だが、忘れまい」というのがあります。加害者は忘れてほしいかもしれませんが、「忘れなさい」にNoを言っているわけです。そのNoが言えるようになったから赦せたのでしょう。
否定されると証明したくなる、それが恨みとなる
「私がこんなになったのは親のせいだ」と思ってよいかどうか。
そう思って解放される人たちがいるのは、述べたとおりです。
一方で、そう思って苦しみを深める人たちもいます。「親のせいだ。だから親が変わるまで自分は幸せにならないぞ」という心がある場合などです。そのような人たちは、親のせいであることを、不幸になることで証明したいとも言います。心理セラピーでは「親のせいだ」ということを「そうかもしれませんね。それは多分にあり得ますね」とあっさりと受け容れます。証明しなくてもいいよってことです。不幸になることで証明しなくても、分かりますよーって。親のせいだ、はあそうですね、くらいの方が恨みは深まらないように思います。
医学的な病の場合はちょっと違うかもしれませんが、心理セラピーで扱っているのはこんなところです。
親の側としてはどうなん?
親側とお話しているときにも「私の子育てが間違えたかもしれません」と言われることがあります。そこで、「親のせいではありません」もありですが、私は「ふつう、間違えるでしょ」と言うこともあります。「子育てに間違いがあってはならない」という前提の方を崩してしまうのです。悪影響のひとつやふたつ、あるでしょう。間違わないよりも、間違ったことに気づける方がどれほど現実的か。間違えない子育てを気張られるより、精一杯生きた親から「ごめんね」と言ってもらえるほうが、どれほど救われるか。
失敗したとしても、失敗しかしていないわけではないでしょう。そのことは後に助けになります。失敗しかしてないですって? そんなことを言っているってことは、少なくとも、なかったことにしないということをしてくれているでしょう。
多くの場合で、叩かれたことよりも、「叩いていない」と無かったことにされることの方が、トラウマを深刻化させています。叩かれた痛みは過去のこととして簡単に完了しますが、無かったことにされる痛みは数十年も続くのです。
私は、傷つけたことと愛したことは、相殺されることなく、それぞれにあるのだと思います。影響を受けた側の心理セラピーをしてきたところによると、それらは相殺して消えることなく、両方とも覚えられています。