性暴力/虐め被害 – 「闘い」は「戦い」とは限らない

差別との闘いについての議論で「戦わなければ負けだ」という言葉を聞いて、ふと思い出しました。それは違うと言っておきたいと思います。その議論を聞いていた人の中に、暴力被害者がいるかもしれないと思ったからです。

※閲覧注意。暴力に関する記述あり。

虐めや性暴力の被害者で、腕力での抵抗(戦い)をあきらめた人はたくさんいます。そのことで、自分に後ろめたさを感じている人たちを見てきました。そして、そのような人たちは、その後ろめたさの陰に「わたしはわるくない」を何十年間も密かに持ち続けていました。

暴力は権力や腕力の差を使って行われます。血みどろになって最後まで叫びながら抵抗を続けるケースは稀です。

心や行動が暴力を受け入れる素振りをしたかもしれません。境界線の破壊が起きているのです。そ私が広義PTSDと呼んでいるのは、主にこのようなことを含めた暴力被害トラウマです。

あまたは加害者の機嫌をとったかもしれないし、加害者の前で自分から服を脱いだかもしれません。それは支配されるという切り札を使って、賢く生き延びたのです。あなたの魂は緊迫した状況で瞬時に正確に働いて、あなたが生き延びるために最善の勇敢な選択をしました。そしてひとかけらの存在を守りました。

あなたは闘いに勝ったのです。

加害者はあなたを見て笑ったかもしれません。それは加害者が弱い人間だからです。私は自らの加害的疾患に負けた者が追い詰められると必死に相手を笑うのを見たことがあります。彼らは人をみて笑わないと偽りの自分を保てないのです。

抵抗を続けて生命を落とした人、怪我をした人の分まで、あなたは闘いに勝ちました。

慰めではありません。あなたは他の人を同じ目に合わせてやろうと加害者の後を継がなかったでしょ。

私は闘いに負けた人たちも見ました。上司から虐められたから部下を虐める人。盗まれたから盗む人。

そうならなかったのは、闘いに勝ったからです。侵略を受け入れたようで、実は受け入れていないのです。

私は心理セラピーセラピストとして、これまでに闘った人たちを見ました。もしあなたが闘いに負けていたら、このような文章を読むこともできないでしょう。心理セラピーを受けようが受けまいが、PTSD症状が改善しようがしまいが、このようなテーマの文章を読めるということだけでも、自分の意思を失っていない、自分を大切にできている、闘いに勝っている証拠です。

この話はうまく書けません。でも、書こうとしていることは、私が知っている真実です。そして、たくさんの人がこれを理解します。だから、わかる人だけがわかればよいと思い、書いておきます。

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