これについては、論理的構造の問題が潜んでいます。
私の意見を結論からいうと次のようになります。
- 専門家のサポートはあったほうがよい
- 「専門がのサポートがなければ回復しない」と思っている専門家は避けた方がよい
論理構造的な問題というのは、これらが素朴には矛盾するかのように誤解されることがあるからです。
ある程度の経験を積んだサバイバーにとっては上記の2つが共存することはさほど奇妙には感じないかと思いますが、混乱する人もいます。
また、支援を業とする者は「専門家のサポートがなくても回復は可能」と聞くと反発したくなったりします。なぜかとうと、専門家に相談しないように助言しているように聞こえるからです。専門家は、専門家に相談しなければいけないという論調を好みます。専門家に相談しなかったがために経過が悪くなった例に注目します。
たしかにそこだけ局所的に見ると、専門家に相談しないことは「悪」です。
一方で、それを啓蒙することにより、「専門家に相談しないと助からないぞ」というメッセージが当事者に刷り込まれるとしたら、それは好ましくない副作用となるだろうと思います。
つまり、「専門家は助けになる」ということと「専門家に相談しないと助からないぞ」は似て非なる命題なのです。
「買った方がよい」と「買うべきだ」が同じではないというのは、買いたくない別の理由があるときなどに顕在化します。そんなときに大事なことは、買いたくない理由をよく観察することと、何のために買うのかという目的を育てることでしょう。
トラウマ回復の過程が長く複雑なのは、単に「何をすればよいか」で答えが決まるわけではないからです。本当はどうしたいのか、べき論を離れて、干渉のないところで考えることも必要です。しかし、干渉がなければ回避へと流されることもあるので、助言も必要です。そかし、助言がべき論になると、本当はどうしたいかが分からなくなります。そんな複雑さがあります。実は、○○療法が効果あるとかいう次元とは別に、様々な生き方を賭けた葛藤テーマがあるわけです。「幸せになる勇気」みたいなテーマもあります。
「専門家に相談しないと助からないぞ」というメッセージには反対の立場なのは、べき論では進まない次元があるということです。また、専門家に相談したくない人は、「助からないぞ」という脅しに屈しないだろうと思います。脅しは、トラウマを作り出した世界と同じ匂いがするからです。
また、専門家に相談したことで、やっと助かったということも実際にはあります。だから私たち心理セラピストが存在するわけです。ですが、トラウマにおいては良いセラピストというのは、「自分が助けなくても、どっちみちこの人は助かる」という感覚を持っているという特徴があります。
Kojunは当事者コミュニティにいたときに、当事者たちが自助や共助で、回復してゆくケースを見てきました。また、セラピー実践においても、セラピーを教える先生や先輩という専門家はいるとしても、結局は当事者たちの試行錯誤や行動によって回復してゆくというのを見てきました。なので、当事者は主体的に、自身の力で回復するのだと思います。独りでやるのではなく他者の存在は必要ですが、それは専門家に限りません。
なので、セラピストというのは回復の過程ですれ違い、利用された者、くらいの役者なのではないでしょうか。
Kojunにも「あのときもう少し強めに専門支援をお勧めすればよかった」と思うことはあります。ただそれは、情報や伝達の質への反省であって、ごり押しの強さではないと思います。
ですから、本当に当事者のために専門支援を勧めるとしたら、「専門家だから信頼しろ」「あんたは専門家ではないから自分では助からない」というような、「専門家」を妄信させるような雑なメッセージではないと思います。もっと具体的に、どんな人に相談したらいいのかという情報を伴うべきでしょう。専門家を妄信しなくて済むような、あるいは上手く活用するコツなども同時に伝えるべきでしょう。