「誰も悪くない」と言われて腹が立つ理由は様々でしょうけど、「誰も悪くない」という言葉が元々は何を意図したものか理解しておくことは助けになるかもしれません。
元々の意図はおそらく「誰が悪いかが問題なのではない」ということかと思います。
誰が悪いかへのこだわり
私は悪くないという気持ち
一方で問題の当事者には、「悪いのは私ではない」という気持ちがあったりします。
(実は「どうせ私が悪いんでしょ」も同じようなものです)
相手に変わってほしいという気持ち
職場や家族内で起きているコミュニケーションの悪循環などを一緒に解決しようとするとき、お互いに相手が先に変わるべきだと思ってしまいます。
そうなると相手を責める以外のことが何もできなくなってしまうことがよくあります。
ほんとは何が問題なのか
たとえば、「夫はゴミを出さないのよ!」と怒っているとき、ゴミを出してくれないとどう困るのか(あるいは、なにが悲しいのか)を見つめることは大事です。相手に伝えるにしても、自分の行動を変えるにしても。
「あなたはダメな夫ですよ」と相手に伝えても良くならないでしょう。だから困っているのでしょう。自分の行動を変えるにしても、諦めるにも、戦略的にコミュニケーションするにも、どう困っているかを知らずにそれらは出来ません。
相手に伝えるにしても、自分の行動を変えるにしても、(誰がではなく)何が問題なのかは要のようです。
「ゴミを出さない」なら愛されていないということかもしれませんし、「ガスの元栓をしめない」なら火事になる危険かもしれません。
仕事上のことなら、モチベーションが下がることや、営業リスクなどなどかもしれません。
「誰も悪くない」だと困る
ところが、本当の問題を直接扱えなくなると、そこには「悪いのは私ではない。悪いのは相手側だ」ということに重点が置かれています。
「誰が悪いのか」への拘りがあります。そのことに気づく必要があるかもしれません。
それは相手が変わってくれなくなるという不満かもしれませんし、誰も悪くないと言いながら私だけが責任を背負ってしまうという不満かもしれません。
「誰も悪くない」は責め合いの連鎖をいきなり止めようとするので、不満や不安を煽る可能性があります。
「さあ双方いますぐ武器を捨てよ」と言われても、プロセスがケアされていません。
「誰も悪くない」も批判になる
さて、ここでもう一つの次元があります。
「誰が悪いのか」への拘りが未解決の原因かもしれないと言われると、「誰が悪いかに拘っている私が悪いって言うんですかあ!」と腹が立ちます。
それもまた「誰が悪いのか」への拘り、連鎖です。
どうすればいいんですか?
武器を捨てるためには安全が必要なように、「誰が悪いか」を手放すためには、本当の問題を扱えることが必要でしょう。
そこでこのように考えてみましょう。
「誰が悪いか」に強く固執する人には、その人の事情があります。
極端な例でいいますと、「お前のせいだ、お前が悪い」と何度も言われて育った人は、「私は悪くない、悪いのはそっちだ」と強く拘ることは生き延びるために必要なことだったでしょう。
もっと一般的な例では、学校教育などでいい子/わるい子の評価にさらされる文化、職場で責任を押し付け合う文化などに晒されると、「誰が悪いか」が重要になってしまうのは事情というものでしょう。
なので自分が「誰が悪いのか」病になっていることを認めることは「自分が悪い」という意味ではないという視点が必要になります。
しかしそこでまた、悪いのは幼少環境や学校教育や職場文化だということにフォーカスしてしまう罠が待っています。大事なのは「事情がある」ということであって、「他に悪者がいる」ということではないでしょう。
そこで、「誰も悪くない」というような言葉が生まれているのだと思います。
それは「誰が悪いかが問題なのではない」という意味であって、「不満を言うな」ということではないのだと思います。
何が不満なのか、どう困るのか、なにを悲しんでいるのか、それらを知ることは人にとってちょっとした挑戦になります。なので、時間がかかったりします。そのためにも「誰も悪くない」とか「誰が悪いかは一旦おいといて」というスペースを作ってみるのは、やっておいて損はないかと思います。