感情処理と論理療法の使い分け

これは単純に言い切ることは出来ないのですが、大まかなイメージを「怒り」の例によって描いてみたいと思います。

※事例は仮想事例です。

論理療法を優先したいケース

例1ー1

あなたが自転車で小道を進んでいると、数人のグループが道幅いっぱいに広がってあるいていた。あなたが通れないことなど知ったことではない様子。

あなたはカーッとなる。

例1ー2

あなたはカフェで飲みかけのカップを席に残してトイレに行った。戻ってくるの誰かが勝手にカップを片付けていて、あなたの席は別の誰かの帽子で席取りされている。

あなたはカーッとなる

合理的にアプローチ

これらには「怒りを出しましょう」という感情解放アプローチはお勧めしません。

これらはどちらかというと、合理的に考えることで解消できそうです。

もし「バカにしやがって」という自動思考が原因であれば、その人たちはあなたをバカにするほどあなたのことなど考えていないと気づけば、感情は改善されるかもしれません。

もし「うわぁぁ、時間がなくなるう」という自動思考が原因なら、「すみません、通してー」と言って道を開けてもらう体験や想像ができれば、感情は解決されてゆくかもしれません。

練習が必要かもしれませんが。

論理療法のユニークなのは、「彼らには飲み残しのカップが席取りであると解釈する義務はない」「カップの片付け忘れのように思われる可能性はあるわな」みたいな客観性にもチャレンジするところです。

これは最初はなかなか受け入れ難いかもしれませんが、コツをつかむと面白いです。

ゲシュタルト療法やプロセスワークぽいアレンジ

演劇風に相手の立場を演じてみるという手法もあります。

カップを勝手に片付けた人の役を演じて、「なぜ片付けたのですか」と質問を受けたり、勝手に片付けたことを怒られる体験をしてみたりするのです。

目指すところは論理療法とほぼ同じなのですが、頭で考えるだけでは難しいところをイメージワークで実感するのです。

両者の視点を含む関係性の全体(ゲシュタルト)に目を向けるわけです。

査定のための感情解放

たとえば、道を塞いでいる人たちに腹を立てているようでいて、実は何も言えない弱気な自分に腹を立てていて、その反動で感情的になっている場合などもあります。

そのような場合は、そもそも思考と感情が一致していないので、論理療法の論駁が迷宮入りふるかもしれません。

そのような場合には、感情表出のワークをして、言葉と身体動作の不一致などに気づいたもらうことから始めることもあります。本当の感情を探すという意味での解放ですね。これはご自身ひとりでやるのは難しいかもしれません。見守られるという体験を伴う必要があるので、見守りキャラのセラピストとやるワークだと思います。

感情処理を優先したいケース

例2ー1

あなたはカフェで飲みかけのカップを席に残してトイレに行った。そうすると誰かが勝手にカップを片付けてしまうかもしれないと分かっているのに、そのことを挑発するかのように、やってしまう。そして、「ほらみろ、やっぱり片付けやがった」という怒りが込み上げる。

そういうことが人生で繰り返される。自分で招いているのかもしれない。

強化サイクル

自分で招いてしまう悪循環は強化サイクルと呼ばれます。

もはや理性の力では手に負えなくなっている場合もあります。

自分でもおかしいと気づいているのですが、そうなってしまいます。そこで合理的な判断として、心理セラピストに相談するのです。

強化サイクルに論理療法的な考え方の修正が間に合わない状態とも言えるかもしれません。

原体験をターゲットにする

強化サイクルの元である過去や幼少期の体験を原体験と呼びます。原体験に対してワークを行うためには、感情という手掛かりをたどる必要があります。

これは原因探しではなくて、手掛かり探しと捉えるのがよいでしょう。

原因はあくまで現在のビリーフ(私の席は奪われる)です。それを変えるために、記憶を癒やします。

当時言えなかった「いやだ」を言うことで、カフェの席など取るにならないことになったりします。

ただ、そのイメージワークで体験されることは、怒っても変わらないってことなんです。

ですからクライアントさんも「怒っても変わらない」と言って怒りのワークを避けることもあります。

でも必要なのは、ちゃんと怒って、それでも現実は変わらないという体験だったりします。

怒りの解放って、単なるガス抜きのワークではないんですね。ガス抜きっぽい側面もなくはないですが、そんな薄っぺらいものではないです。

それはカフェの席取りや現在の人間関係に投げかけていたものを自分のものとして取り戻すことでもあります。

これまでやってきた、カフェや現在の人間関係に怒りを投げかけてきたこととは逆のことをするわけです。暖かくも、ちょっとしんどいですよ。

置き去りにされしもの

ただ、たいていは「いやだ」と言えなかった理由があります。それは悲しみや恐怖として記憶されていたりします。それを置き去りにされしもの(the left behind)と呼んでいます。

多くの場合は、怒りだけ解放してもだめなんですね。

これは幼少期に限らず、近年の出来事(それま原体験?)についても起こり得ます。

怒りの解放とは、カフェの中で孤独に泣き叫ぶ自分をみつけて、抱きしめる、そんな体験となります。

一部の専門家が見ている「怒りを表出しても、ますます怒りっぽくなるだけだ」という世界とは全く異なります。

実は論理療法的でもある

実は感情解放セラピーの最初と最後には論理療法とそっくりな作業をしています。

なんでもかんでも解放してたらきりがないので、最初に(途中でやり直すこともありますが)、お悩みと深く関係するビリーフ(信念)の見立てをクライアントと共に行います。Kojunのサービスでは事前相談という心理カウンセリングですね。これにより超短期療法となっています。

また最後には、新しく選んだ世界観を言葉にしてもらいます。「(カフェの席を取られたとしても)私は孤独ではない。なぜなら自分でそう決めたからだ」とかですね。

これは論理療法の「E」と呼ばれるステップに相当します。

そして、日常生活の些細なことにおいては、論理療法的な実践へと戻ってゆくのです。

感情解放の体験がある人は、論理療法も得意になり得ると思います。

もしかしたら

論理療法的アプローチだけで解決するお悩みは、感情解放的なアプローチを必要とするお悩みよりも件数が圧倒的に多いのかもしれません。となると、現代の臨床倫理学では「数が多く当てはまるもの」を科学的と呼ぶ作法が優勢ですので、前者の方が科学的と呼ばれることは起こりやすいのかもしれません。後者は日陰者になってしまいやすいかもしれません。

でもその日陰者なところは、トラウマを持つ人たちが受けてきた苦しみに似ているようにも思います。

※なお、論理療法も感情を大切にしていないわけではなく、常に感情を感じないようにすることを勧めているというわけでもないです。

参考

※当サイトの記事には実践経験に基づく意見や独自の経験的枠組みが含まれます。また、全てのケースに当てはまるものではありません。ご自身の判断と責任においてご活用ください。

※当サイトの事例等は事実に基づいてはいますが複数のケースや情報を参考に一般化して再構成、フィクション化した説明目的の仮想事例です。

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