ゲシュタルト療法の「いまここ」について

対人支援者の勉強会で話す機会がありましたので、ついでにブログにもゲシュタルト療法の「いまここ」について書いておきます。

以下は、技法折衷の[1]つまり純粋なゲシュタルト療法ではない。実践経験から私なりの説明を書いてみます。

ホットシート/エンプティチェア技法のイメージで説明してみます。

たとえば、目の前の空椅子にクライアントの幼少期の父親がいるのを想像してもらいます。そして、セラピストが「お父さんはどんな表情ですか?」と尋ねます。

そのときクライアントが「父はいつも機嫌悪でした」と言ったら、それはまだ「いまここ」になっていません。

「いつも・・・でした」というのは一般化された命題、思考によって加工された意見になっています。

「いつもどうだったかではなくて、いま目の前のお父さんを見てください。いま目の前のお父さんはどうですか?」と誘導することで、思考で加工された父親像ではなくて、直接いま体験された父親像が出てきます。

ゲシュタルト療法の「いまここ」は、この直接いまここで体験されるそれのことだろうと思います。

※この例のように過去の記憶を使ったワークであっても、いまここに感覚を再現するわけです。(いやいやゲシュタルト療法では過去は扱わないという立場もあるようです)[2]面倒くさいことを言えば、Kojunも過去の記憶を扱うと言いながら、実は本当の出来事かどうか気にしていません。

教科書的には「いまここでそれを感じてください」となるそうですが、実際にはそんな無茶ぶりな言い方はしないかも。ドイツ語ならいいのかな・・・

「父はいつも不機嫌でした」の「でした」という過去形も「いまここ」ではありません。あのときの自分と距離を置いて客観的に見ている感じです。

現在形で話してもらうことで「いまここ」に到達するかもしれません。これなら少しは具体的でしょ。

こういうのをテクニックとして暗記してもダメなんですけど、「いまここ」の説明としては伝わったかしら。

「ぼくはそのとき寂しかったんだと思います」というような感情も「いまここ」ではありません。表出してほしいのは、あのときの自分について今の自分がどう思うかではなくて、あのときの自分になっていまここで感じていることです。あのときをいまここで感じるわけですから、論理的には破綻しているのですが、人間の脳は不思議なものでそれが可能なのです。

Kojun流にちょっと偏っているかもしれませんが、「いまここ」の意味が解りましたでしょうか?

すなわち、「今・ここ」で、真の自分(の欲求)に気づき、それをありのままに認め、受容することで、未完結な問題を完結することができ、生きるエネルギーを活かすことができるようになるのです。

『「生きづらさ」を手放す 自分らしさを取り戻す再決断療法』室城 隆之

思考で加工された父親像ではなく、直接体験っぽい父親像をを扱ったときのみ、その人にとって心的現実が語られ、悲しみであれば本当の気持ちに触れるカタルシスが可能になったり、恐怖体験であればイメージに対する系統的脱感作や暴露法的な馴化ができたり、迷い・葛藤であれば自分がどうしたいか自覚できたり、というような図地反転が起こせるということでしょう。

脚注[+]

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