事情が違うのです。なぜ違うのかを問わずに、仲間に受け入れることができる世界を夢見ています。
I am dreaming about the world.
でも、過去になにが起きたかを、自分がどういう人間であるかの理由にして語るのは、お勧めしません。(一時的には必要かもですが)
だからこそ、事情を因果論で説明しなくても、事情によって違うのだということを世の中が受け入れるようになってほしいと思います。
私がこういう人間になったのは何故か、1つのセオリーに解釈を固定するのは危険。
私がこういう人間になった理由を尋ねないで、私がこういう人間でもよいと思ってくれる人達がいます。
赦せないものを赦すために、事情を問うことはしない方がよいこともあると思います。赦せないものがあれば、赦せない自分の事情を問うてみるのはよいかもしれません。
私たちは事情を知ることはできません。事情を頭で作り出すことしかできません。
ただ、事情を問わなくなるためには、いくつかの事情に触れてみるという刺激が必要かもしれませんね。なので、事情を語る人もこの世に必要かもしれません。
ですから、なにが良くて、なにが悪いと、単純に言い切れないものです。
セラピー技法では、あえて事情にアクセスしますが、それは技術的な通り道です。目的地ではありません。
セラピーのセッション中には、多くの場合、そうなった経緯(過去の環境や出来事)でに触れます。しかし、セッションが終わった後で、セラピストが「あなたがこうなったのは幼少期にこんな出来事があったからですね」などと話すことはありません。そんなことは覚えてても仕方のないことです。